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権兵衛

「名無しの権兵衛」って
名、在るやん


「名無しの」と枕を置いて「権兵衛」とな?
と、ほんの一瞬、疑念を抱いてしまった。迂闊だった


『あいつの名前は権兵衛っていうんだ。権兵衛には名前が無いのさ』


ああ気付いてはいけなかった
早速こちらを覗かれている
まーた深淵に挨拶をしなければならない





「誰かさん」を意味するメタ人名は世界各国に存在する
総覧は英WikipediaのList of terms related to an average person
(平均的な人物に対する用語の一覧)に詳しい


拝見してみるとなんだか山のように要出典がついている
幸運なことに私は「信じる」という魔法を習得済みなので事なきを得た


出典とは無限に続く出典の連鎖への入口である
疑い始めれば果てはなく、遅かれ早かれどこかで魔法が必要になる
したがって私は、最も怪しい段階から早々に信じることにしている
書かれているので、あとはただ信じればよい
地球は丸いのだ(要出典)


で、件の総覧をざっと眺めてみると各国の文化的背景など垣間見えて面白い
インドの「आम आदमी(common manの意)」とか中国の「某某」とかは、ははぁ、なるほどなあと思う
そして日本(Japan)の欄には、やはりいらっしゃいますね。「Nanashi no Gombei」が


読めない言語は読めないので定かではないが
「名無しの権兵衛」に類する逆説を冠した呼称はどうも稀のようである
深淵に暮らす「誰かさん」は、世界的にも特異な存在らしい


うーむなんと名無しの権兵衛の不可思議さよ
「人呼んで権兵衛」とか「権兵衛(仮)」だったらなんの問題も無かったのだけれど
「名無しの」が歴史的に選択されたのがすごいですね


権兵衛は権兵衛ではない
されど権兵衛は権兵衛なのだ





あまりに堂々とパラドキシカルなことをされると、案外気にならないものです
その姿勢、見習わねばと思う


堂々とやるのがポイントだな
誰にも気付かれないままに混ぜてやれば、油は水に溶けることができるってことだ
(もちろん油にも水にも、それを気付かれてはいけない)


堂々の真髄は無自覚なのかもしれない
自覚のある境地など到底境地ではないのだと、つくづく思い知らされる
「気付いてはいけなかった」という直観の正体は、恐らくそこにある


私が気付いてしまっては、相手にもまた気付かれてしまう
私が気付いていなければ、相手にもまた気付くことはできない


権兵衛自身は、きっと何も気付いていないのです
それゆえに、高みに居る

鉄の味がする水

普段飲み物を飲むときは、真空断熱タンブラーというものを常用しておりまして
それを使う度に感じていることがあるので記しておこうと思います





「真空断熱タンブラー」で画像検索していただければ、それがどんな見た目をしているかわかるだろう
意匠に細かい違いはあるけれど、基本的にはステンレスでできた、何の装飾もない全面金属の器だ


私は普段その器にあまり上等でない烏龍茶を注いで飲んでいるのだが
その行為は現実とのやむを得ぬ妥協点であって、あるべき姿ではない
そのあるべき姿でなさを、日々ひしひしと感じている


あまり上等でない烏龍茶というやつは、あまり上等でない盆に並んだ
あまり上等でないガラスのコップをひとつ手に取って注ぎ
あまり片付いていない机の上にそれを置いて、飲むべきだと思う


コップから流れ落ちた滴が机に描く円い輪が、世界を完結させる魔法陣なのです
私は毎回大変申し訳ない気持ちになりつつ、結局件の真空断熱タンブラーを使って烏龍茶を飲む
どうすることもできないことは、どうすることもできない





器と中身には、あるべき姿というものがある
ビールがジョッキに、ワインがワイングラスに、緑茶が湯呑みに注がれるとき
そこに完結された世界が宿る


鋳型を見れば、そこに鋳物の姿が映るように
器を見れば、そこに器を満たすべきものの姿が映る


ラムネの瓶はラムネで満たされるからラムネの瓶なのであって、それを忘れてはいけないわけです
ラムネの瓶に葡萄酒を入れたって別に構わないのだけれど
それをやる人は「ラムネの瓶にはラムネ」というあるべき姿の方を、重々承知していなければならない


世界は自由なのだけれど、自由は思慮深さを求める
物事を「守破離」の「破」から始めてはいけないのだ


「真空断熱タンブラーに烏龍茶」は完全に「破」なので
「守」に対する敬意をもってやらなければならない
謝というか、贖というか、そういう心が必要だと思う




ほんとうに先立つのは「守」の方なのだ
鈍色の金属光沢を放つその器に、満たされるべきものの姿が、まず何よりも先に在る


それは烏龍茶では、決して、ない


それは「鉄の味がする水」だと思う


真空断熱タンブラーは、その時を待っている
ずうっと昔から、待っている


地下深く、日の当たらないじめじめとしたアーケードで
ごちゃごちゃした路地の裏にある傾いた蛇口をひねると出て来る水
長く入り組んだぼろぼろの配管を抜けて、ほんのりとかすかに赤黒く染まった水


その器は、その記憶を持っている。その味を識っている
その器は、そういう場所からやってきたのだ


その器を見れば、それを満たすべきものの姿が映る
明日はあるけれど明後日はない老人から
すえた油の匂いを纏った鼠の唐揚げの食べ方を教わりながら
幼い子供が鉄の味がする水を飲む
老人は笑って、やたらと度数が高いだけの酒を飲む
そのときに、彼らが手にしているのが、その器なのだ


格好良いっていうのは、格好が良いということだ
世界(=格好)が完結している(=良い)ということだ


だから器の世界を完結させる必要がある
しかし、この文章を書いている今も、私は結局いつも通り烏龍茶を飲んでいる
世界を宙ぶらりんのままにしている


仕方のないことなのです
鉄の味がする水は、此処では、望んで手に入る代物ではないのです
鉄の味がする水は、此処では、あまりに上等でなさすぎたのです


それは方便でなくまことの事実だが、器は語りかけてくる
「鉄の味がする水を殺してしまったのは、あなたたちだ」と





誰にも助けを求めることなく静かに
鉄の味がする水は殺された


公園の水さえ、此処では綺麗に澄んでいて
鉄の味がする水は、どこを探しても見つからない


だから器の言い分は尤もなのだ
ほんとうに、ただただ申し訳ない気持ちになる


私たちが鉄の味がする水を殺したし、今でも殺し続けている
私たちには殺めているという自覚が無い


だから私たちは平然として、此処からあまりに上等でなさすぎるものたちを排除していく
それで最後にどうなるかはわかりきっている
此処には、あまりに上等でなさすぎる私たちが残るのだ


誰にも魔法陣を描くことができなくなる前に
此処から逃げ出す方法を考えなければならないような気がしている


だって鉄の味がする水は殺されてしまったのだ
もう綺麗な水しか飲むことができない
私たちは取り返しのつかないことをしている


完結の時は来ない
器はずっと待ち続けている
私にはどうすることもできない


此処の水は美味しい
だから此処は、とてもおそろしいところなのだ

おつままれ

気球と風船って、名前逆なんじゃないかとか
豆腐と納豆も、名前逆なんじゃないかとか
唐突にそんな疑問を抱いたことがあるのは
私だけではないことと存じます


本日は、そういう名前のズレの話です





気球は実際は風の船だし
風船は実際は気の球だ


豆腐は実際は納められた豆だし
納豆は実際は腐した豆だ


ものの名前にはなんでかそういうズレがしばしばあるわけで
そのうち美しく相互に対応関係を成すものについて
私は勝手に「気球風船対(ききゅうふうせんつい)」と呼んでいます
多分他にもあると思う


もちろん気球も風船も辿れば歴史が、語源があり
その名に至ったいきさつというものがあるはずなので
それぞれ逆でもなんでもない正統な名前なのだろうけれど


言葉それ自体には歴史や語源という情報が含まれていないので
名前だけ聞いたとき、ふっと感じられるそのズレに、私は惹き付けられるのです


細かいことは気にしないで
素直におかしさをおかしむのだ





組からなるものがあるなら、群からなるものもあるんじゃないかと思って
ものの名前というものをあらためて見てみると、ズレているものはやっぱり結構見つかる


ハサミはハサんでいるか
キリはキッているか
サシはサシているか
してない


ハサミは切ってるんだからキリだと思う
キリは刺してるんだからサシだと思う
サシは測ってるんだからハカリだと思う


残念ながらハカリは正しくハカっているのでそこでおしまいですが
どこかに美しいズレの大循環がありそうな気がしている
なさそうな気もしている


まあこれらは音声だけの話なので
ハサミは「鋏」と漢字で書いてしまえばそれまでです


いや、しかし、金に夾というのも如何か
金に刀とかの方がしっくりきてたのではないだろうか


鍛冶仕事の、熱した金属を挟む道具が「鋏」なのはとても納得がいくけど
切断する方も「鋏」って呼ばれるのは、果たしてそうなのだろうか
いや、そう呼ばれてるんだから、そうなのか
あ、「剪刀」って書けばいいのか
うーむ、それで万事解決と言えるのか?


そんなふうにあれやこれやと巡らせていると、突如

挟む ≠ 切る

と全く断絶して捉えられていたものが、実は

挟む ∋ 切る

という関係性にあるのではないかと気付いたりして
世界観のパラダイムシフトが起きたりするわけです





言葉はテキトーだが
人の心もテキトーだ


名前がズレていると感じるとき
ズレているのは自分の方かもしれないのだ


彼方か、此方か
果たして





考えていると、またひとつ出会いがある


「おつまみ」は「おつままれ」ではない


なんだかとても、幽玄な気がしてくる

サンタクロースはいないことになっている

特に時期ではないんですが、まあ合わせる必要もないだろうということで
何となく本日はサンタクロースは果たしているのか、いないのかという話をします
結論から言うと、サンタクロースはいないことになっています





いるではなく、いないでもない
「いないことになっている」
そこに大変巧妙な仕掛けがある。と、思う


大人たちは「自分たちが子供にプレゼントを買う」という厳然たる事実を知っている
ときに「サンタさんに頼まれて」と優しい嘘をついたりもする
残念ながら彼らは決してサンタクロースからの依頼を受けてはいない。誰ひとりである
そのことを大人たちはよく知っている
嘘を交えずに答えるならば、大人たちは自らの経験の範疇において
サンタクロースは「いない」と答えざるを得ない


それで大人たちは「自分たちで買ってる」という揺るがぬ現実を
いかにして子供たちに言い訳するか、に苦心するんですが
実際のところこれが大問題のようでいて、全然問題ではないのです
それが、サンタクロースの用意した巧妙な仕掛けの入口です


「自分たちが子供にプレゼントを買っている」
と、大人たちは思っている
この「自分たちが」という前提が、誤解の始まりである


「自分たちが子供にプレゼントを買っている」という行為そのものがサンタクロースの御業ではないと
ほんとうは誰にも言えないのだ
ところが大人たちはそれを「完全に自分たちの意志と責任でやってる」と思い込んでいるので
なんとかして子供たちにそれを上手く説明しなければいけないと考えてしまうのだ
そこが大人たちの自己というものに対する過信で、その過信にサンタクロースは目をつけたのだ
大変巧妙な仕掛けがある


そもそも一晩で世界中を飛び回り子供たちにプレゼントを配るという伝説をもつ人だ
その力たるやどれほど非凡であることか
ふつうの大人がそれに太刀打ちできるはずもないのだが
大人は自分たちのことをそれなりの存在だと思っている
だから「そんな人間はいるはずがない」とか「自分たちがサンタクロースの振りをしよう」とか考える
「自分たちがサンタクロースの振りをしている」と考えてるので
あれこれ物語を足して、色々と感動的な言い訳を行う


自らが自らを制御しているという過信が「振りをしている」という誤認を生んでいる
本当に操られている人は、操られている自覚を持つことは決してないのだ
純然と「自らの意志でやっている」と思う。思わされる
「自分の意志でサンタクロースの振りをしている」と思わされているので、言い訳をするのだ
それは子供たちのための言い訳でもあるし、大人たち自身のための言い訳でもある


それら全てが、サンタクロースの仕掛けたシステムの中にあるのだ
だから実際は、何一つ言い訳をする必要はない
ないんだけれど、大人たちは言い訳をする。大変巧妙な仕掛けだ
大人たちがあれこれと言い訳を述べ、子供たちがそれを聞いてまたあれこれと考えるところまで含めて
全てがサンタクロースの仕掛けなのだ





遠い昔からサンタクロースは非凡であったが、最初はそれでもまあよかった
しかし時とともにちょっと非凡すぎることが人々に発覚し始め、存在が嘘くさくなってきてしまった
それでサンタクロースは、やり方を変えたのだろうと思う
表に出ると嘘くさいので、表に出てこなくなった
代わりにもっと現実的な方法で、自らの仕事を果たすことにした
ただそれだけのことだ


サンタクロースは真に仕事ができる人なのだ。そのやり方はほんとうにすごい
大いなる仕事を自分でやらずに他人にやらせて
そうして当人に、「何もかも自分たちでやりとげた」と思わせることにしたのだ
サンタクロース本人が直々にサンタクロースの仕事をしなくなったことは、最早全く問題にならない


「大人たちがサンタクロースの振りをして(ると思い込んで)
サンタクロースの仕事をするようになった」
これがほんとうに重要なことだ
そうさせているのは誰なのか。それこそがこの問題の答えなのだ
わかりきったことだ。到底人間の所業ではない
話の規模があまりにも大きすぎる
結局そんなことは、サンタクロースにしかできない


私は、世界を飛び回る(という伝説の)力の使い方を
人を操る方向にシフトしたんじゃないかと予想している
(多分実際はそんな単純な話ではなく、もっとすごいことをしてるんだろうと思う)


だからサンタクロースがいるのか、いないのかという議論を行うこと自体
既にサンタクロースの掌の上なのです
そういう話になった時点で、それがサンタクロースの存在と力の、明白な証明になる
とてつもなく強大な力がはたらいている。サンタクロースとはそういう存在である





サンタさんはいるとかいないとか、子供の夢を壊すとか護るとか
そういう次元にサンタクロースはいない
サンタクロースはもっとずっと上のステージにいる
サンタはいないとかなんとか言ってる人がプレゼントを買っている
いようがいまいが、関係がないのだ
どっちにしろ人はその仕事を遂行している


サンタはいることにして
サンタはいないことにして
どちらにしろ人間は、サンタクロースの仕事をするのです


サンタがいることの証明はできない
サンタがいないことの証明もできない
どちらも人間にはできない仕掛けになっているのだ


いるもいないも証明できないので
人間はサンタがいることにしたり、いないことにしたりする
いることにするのと、いないことにするのは結局のところ同じだ
言い訳をするか、言い訳をしないか。本当の違いが生まれるのは、そこだけだ


全てそうなるように仕掛けてあるのだ
わざと事態をごちゃごちゃさせて人々の目を眩ませ
ただひとつ「人が人にプレゼントを与える」という行為
それだけが厳然たる事実として存在し、脈々と受け継がれていく仕組みになっている
そしてその活動こそ、絶える気配が全くないのである


強大な力がなければそんなすごいシステムは維持できない
強大な存在がそれを支えている。それは何者だろうか
そんなことができるのはひとりしかいない
いや、ほんとうにおそろしい話ですよ
私はあまり近づきたくない


サンタクロースはいるのでなく、いないのでもない
「いないことになっている」
他ならぬサンタクロースがそうさせている
流石としか言いようがない


最近の私は流石とかすごいとかばっかだな
すぐ語り得ぬ領域に突入しそうになる


まあでも当のサンタクロースがそういう場所にいるようなので仕方ない
すごいものは、すごい
よくできているものは、よくできている
言葉にすると、言葉になってしまうのだ


完全に掌の上だ
完全に掌の上なので、人はその身を委ねることしかできない
私はただただ、おそれを抱いている
畏敬とはそういう存在のためにあるのだ
かしこまらなければならぬ





サンタクロースは、果たしているのかいないのか
サンタクロースは、いないことになっているんですよ


そんなわけで「サンタさんはいるの」と誰かに訊かれたら
私は「いないことになっているねえ」と答えるのでした

忌み数

ある文化圏では、13は不吉な数字だという
そういう場所では、13階の存在しない建物が生まれる
ある文化圏では、4は不吉な数字だという
そういう場所では、4階の存在しない建物が生まれる


12の次は13であると定めた人が居て
12の次は14であると定めた人が居る


13を入れるなんて恐ろしいと信じる人が居て
13を抜くなんて馬鹿らしいと信じる人が居る


そういうところが人のよさですよね
結局12の次は一体何なのか。ときどき思い出しては、考えている





物は、そういう話の外側に居る
13階は、あったりなかったりする
物は、ただそれをそのままに映し出す
だから彼らは人というものをよく識っていて、よく教えてくれる


そういうところが物のよさですよね
与することがない
与することがないから信頼できるし、尊敬できる
彼らには安心して、どうでもいい話題を振ることができる





高い建物でエレベーターに乗るなどすると
つい欠番がないか確認してしまう

「『13階を創るだけ創っといて、誰も使わない』ってのが良いと思わん?」

と私が問いかけると、しばしの沈黙ののち

「そんなこと言われてもなあ」

と、エレベーターが答える
それで少し考えてから

「そうだよなあ」

と、私が返して、再び沈黙が訪れる


そういうのが物のよさなのです





「そんなこと言われてもなあ」、その通りだと思う
さすがだ。いいこと言う


13階は、あったりなかったりする
あったりなかったりすればいいのだ


私が6階のボタンを押すと、数字が順に光り始める
独特の浮遊感が生まれ、空間に機械音が響く
世間話が途切れたときの、心地悪さが心地よい


無理に会話を続ける必要などないことを、ふたりとも識っているから
そこから先は、何も起きない

ないものはない

「ないものはない」
何の変哲もない言葉だけど
じっくり向き合うと遠くに行くことができる


「ないものはない」
意味は「ない」とも「ある」とも取れる


ないものはないんだから、ない
ないものはないんだから、ある


どっちでもいいのだ
つまり、何も語っていないに等しい


ないものはないのだ
ないものはないんだから、ないものはない





「ないものはない」に対峙していると
情報量が多すぎるので
だんだん考えられなくなり
感じる領域になっていく


何も語っていないに等しい言葉は
全てを語っているに等しい


ないものはない、ないものはない


ないものはない
ないものは、ない

金木犀

嗅覚だけに集中して街を歩いてみると、とてもおもしろい


どうやら思っていた以上に香りというものは目まぐるしく変わっているようだ
秒単位で風景が変わっているから当たり前なのだが、秒単位で香りも変わっている
これまで歩いているときに視覚と聴覚は無意識に使っていたが
嗅覚はあまり機能させてこなかったことに気付き
大変な情報量を見落としていたと思った(嗅ぎ落としていた、と言うべきなのだろうか)


それで嗅覚以外の五感をぼんやりさせながら、街を歩いた
何かの香りを感じたら五感を元に戻してその正体を確かめてみると
風景の中に対応するものが見つかる
植物の香りが増えたなと思って意識を目に戻すと、公園が目に入ったりとか
急にシナモンの香りがすると思ったら、近くにベーカリーがあったりとかする
大抵のものは香るべくして香っているのだな




そういうことを続けていると、たまに正体不明の香りに出会うことがある
そういう出会いがおもしろい


風に乗って一瞬とても親しみのある香りがした
絶対にどこかで嗅いだことがあると感じたのだが
周囲を見渡しても発しているものの正体がわからない
気になってしばらく考えていたら、遠い記憶の中に手がかりを見つけた
それはでんぷん糊の香りだった


わかったけどわからなかった
なぜ街中ででんぷん糊の香りがしたのだろうか
不思議に思って家に帰ってから調べてみたところ
でんぷん糊は香料として金木犀が使われているものがある、ということがわかった


金木犀
あれは金木犀の香りだったのか
知らなかった
ということは金木犀がどこかに生えていたということか
秋か





「でんぷん糊は金木犀の香り」
へー
……へー?


どうやら金木犀が先ででんぷん糊が後だったということらしい
しかし、私にとっては、でんぷん糊が先で金木犀が後なのである
でんぷん糊の方が、記憶のずっと深いところに住みついてしまっている
あの香りの名前として、ずいぶん昔からでんぷん糊が登録されているのだ
それが今になって唐突に金木犀へと書き換えられる運びとなった


いや、理屈はわかりますよ
しかしイメージの上書きがどうにも上手くいかないのです
うーん、どう考えてもあれはでんぷん糊なんだよな
香りの正体が完全に判明した今もなお、私にはあの香りはでんぷん糊のものだったと思えてならない
「金木犀がどこかに生えていたのだ」という説明を、頭では理解できても、心では理解できないのだ





それで「あれは金木犀の香り」と何度自分に言い聞かせても上手く行かないので、諦めた
やっぱりあの香りの正体は金木犀じゃないよ。でんぷん糊です


だから「金木犀がどこかに生えていた」という説明がそもそも間違っているのだ
それなら「でんぷん糊の木がどこかに生えていた」という説明が正しいということになる
あの香りの正体は金木犀ではなくでんぷん糊なのだから、それはそうなる





街路樹にでんぷん糊がよく実っている
でんぷん糊の微かに甘く淡い香りが空間を満たして
チューブ型の実はゆらゆらと、短冊のように風になびいている
道端には枝から落ちたチューブが点々と転がっているので
ひとつ拾って蓋を開け、指先にちょんと付けて嗅ぐ
淡かった香りが一瞬ぐっと強くなって、鼻から頭の上へ抜けていく
それで私はひとつ深呼吸をして
「あー秋が来たなあ」と、しみじみ思うのだ

Layer

昨晩は絶妙に雲のかかった月が出ていて、綺麗だった
どうやら中秋の名月だったらしい


薄い雲の後ろに月が透けて見えていたのだが
それを「薄い月の後ろに雲が透けて見えている」ように眺める、という挑戦を延々とした


2つの星を見比べるとき、どちらがより地球から遠いのかを判断しようとしても
見た目ではまずわからない
月と雲を見比べるときもどちらがより地球から遠いのかを
目の性能だけで判断できているとはあまり思えない
「月は雲よりずっと遠い」と信じるこころが
月が雲よりも後ろに見えるという認知を決定付けている気がする


まあ事実として月は雲より遠いのだけれども
事実は事実でしかないのだ


それでしばらく粘ってみたが、いつまでたっても雲の手前に月は来なかった
「雲は月よりずっと遠い」と信じるこころが足りてない
うーん、とらわれている


結局最後まで月は雲の後ろに居たままで
私はまだまだだなあ、と思ったのでした

構造色

玉虫のことが気になった
玉虫色、どうやって発色してるんだと思って調べてみたら
しゃぼん玉と同じらしい。なんと。そんなところと繋がっていたとは。知らなかった


これからは玉虫を見る度にしゃぼん玉を思い浮かべることになる(逆も然り)
全く繋がっていなかったものが繋がると嬉しくなる


玉虫としゃぼん玉が繋がって喜んでいると
急にそこから発色の原理の説明まで求めてはいけないような気がしてきて
それ以上は調べるのを止めた


「かくかくしかじかというわけで、玉虫としゃぼん玉は同じ色なんだよ」と
全てをきちんと語れるよりも
「玉虫としゃぼん玉は同じ色なんだよ」と、それだけしか語ることのできない人でありたい


理由を説明できない知識を持っていれば、理由を説明しなくて済む
そこにはほんとうに大切なことが、ほんとうに必要なぶんだけ残る


二手に分かれた道があり、真ん中に立札が立っている
片方は「知っている」、もう片方は「知らない」。ふたつの矢印が、それぞれの道を指している
知っている者にしか行けない場所があり、知らない者にしか行けない場所があるのだと思う
私は知らない者にしか行けない場所へ行きたい


理屈の無い理屈が好きなんだろうな
理屈の在る理屈の方は、放っておいても大丈夫そうだしなあ





世界を語るふたつの方法がある
片方は「なぜ」を必要とし、もう片方は「なぜ」を必要としない


玉虫としゃぼん玉は、同じ色なのだ

流れないそうめん

「回らない寿司」という表現に、出会う度に心惹かれる
食べものとしての寿司が好きとか嫌いとかではなく
言葉としての「回らない寿司」に不思議な魅力がある、というお話





「回転寿司」は「寿司」と区別するために「回転」と付けられた
当初は「回転寿司」のみが回転する特別な寿司だったのであり
「寿司」という表現だけで「回らない寿司」を意味していた
「回らない」という修飾は不要であった


時代は下り、回転寿司の隆盛によって寿司は回ることが一般的となった
「寿司」は「回る寿司」と「回らない寿司」を包括する語となり
「回る寿司」に対して「回らない寿司」と
「回らない」を記す必要が生まれた


短い期間に寿司の勢力図は変化し、その変化はまだ終わりを告げていない
現在、「回らない」は不要であるようにも感じるし、必要であるようにも感じる
だから「回らない寿司」と聞くときには、相反する2つの心情が同時に呼びさまされる


また、「回らない寿司」には「(回る)手頃な寿司」と「(回らない)高級な寿司」という対比の意もあった
ところが今では高級回転寿司が登場している。いよいよ寿司界は騒然としていることだろう
「回らない寿司」の正体が、謎に包まれていく





渾沌がある
渾沌は解明を拒む
ゆえに、不思議な魅力が生まれる


人々は「回らない寿司」と言う
人々は「流れないそうめん」とは言わない


そうめんは、秩序の世界に居るのだ
寿司は、渾沌の世界に居るのだ

澄み渡る

喉が渇いているとき、「喉が渇いている」と言うけれど
喉そのものはそんなに渇いてないと思う


「喉が渇いている」は、正確には身体が渇いている状態だ
水分の入口は喉だけれど、本当に渇いている場所は喉ではない


「お腹が空いた」というのも、空いている場所はお腹ではない
空腹は全身のエネルギーが欠乏している状態で、お腹以外の場所にもいろいろな症状が出る





言葉は、言葉通りではないのです


私はアホなのでそのことがよくわかっておらず
お腹が空くのはお腹が空いたときだけだと思っていた
おかげで「お腹以外の場所からくる欠乏感覚」も空腹と呼ぶのだと気付くまでに随分かかった
「身体がだるい」や「眠れない」といった状態も「お腹が空いた」と呼んで良いのだと学んでから
ようやく「お腹が空いた」の正しい感覚を認識できるようになった
「なるほどなー」と思い、そして「お腹が空いたって全然お腹の話じゃないんだなあ」と思った


自身の感覚についてそこまで鈍いのは私がアホゆえなのだが
多少なり言葉には人の感覚を限定したり、混乱させる力があると思う


「喉が渇く」という言葉が存在するおかげで、水分不足を感じたときに
無意識に神経を喉の周辺に集中させてしまうようになる
「本当に渇いている場所」を見失わせる
その力は、呪いに似ていると思う


知っている言葉が増えるほどに、実体からは遠ざかる
「肩が凝る」という言葉を知らない方が
肩が凝るときの身体の違和感の姿を正確に感覚できると思う
肩が凝るとき、本当に凝る場所は肩ではないからだ
その姿形が、毎回少しずつ異なっていることもわかる


「心が寒い」なんて言うときも、実際寒いのは心ではないのかもしれない
誰かに手を握ってもらうだけで心の寒さは解決したりする
やっていることは「手が寒い」と全然変わらないのだが
「心」という抽象的な言葉が、単純な問題を難しくしている


「痛い」という言葉が存在しなかったら「痛み」もまた存在しない、は流石に言い過ぎだけれど
「痛み」という感覚と「痛い」という言葉が過不足無く対応できているかというと
全然できてないと思う


今日の「喉が渇いた」と昨日の「喉が渇いた」は
似ているけれど、同じではない
雲のようにふわふわと、輪郭を持たない言葉たちが、それらを同じことにしている





言いたいことは、言ってしまうと遠ざかる


言いたいことを十全に言うためには
一切口を閉ざしておくか、あるいは無限に弁を弄するか
いずれかしかない気がする
発すれば、ずれる。ずれれば、離れる


翻訳せずに済む話は、翻訳しない方がいい
とにかく全部をそのまま感覚しようとしてみれば
いろいろなことがわかり
いろいろわからないということもわかる


身体から送られてくる膨大な情報を「喉が渇いた」にまとめたとき
うーん遠ざかったなあ、と思う
それが良いとか悪いとかは無い
ただ、遠ざかったなあ、と思う




言葉はお喋りなので
放っておくとどんどん遠ざかってしまう
遠ざかりすぎるのはちょっとまずい気がするので
そういうときは、少し耳を澄ませるように心がけたい


耳を澄ませて、たくさんの声を聞く
澄ます場所は、耳ではない

共生

街は生きものである
いや、比喩でなく


生命の定義について、という話はとても大変なので避けるが
誕生、死、繁殖、絶滅、遺伝子、代謝、それと意思
とりあえず街はその辺り全部備えていると思う
街は生きものである


たぶん関係を逆にしても成り立つ
集住、過疎、繁栄、衰退、都市計画、世代交代、それと意思
とりあえず生きものはその辺り全部備えていると思う
生きものは街である





人の体内に微生物が暮らすように、街の体内に人が暮らす
人が街を生かしており、街が人を生かしている
人の側に主導権はなく、街の側にも主導権はない
共生している


互いが互いを助ける、という基本理念がある
微生物の活動が人の生存に不可欠であり、人の活動が微生物の生存に不可欠であるように
人の活動が街の生存に不可欠であり、街の活動が人の生存に不可欠だ


街が失われそうになると、人々が興そうとするのは
宿主の死を防ごうとする本能のようなものだと思う


まあ、善玉悪玉という話もある
人それぞれいろいろ役割がある
宿主を生かしたい人たちも居て、殺したい人たちも居る
それはそれとしておく





興味深いのは、人に「街の死」を感覚する能力が備わっていることだと思う
大きすぎて(人の感覚からは)街全体の生命活動を把握することはできない
当然「街が生きものなわけあるか」という人は居るだろう
けれど、自分が住んでいる街の活気や衰退を感じることができない人は居ない
普段街の「生」を感じていなくとも、その「死」はわかるものだ
それがわからなければ、助けることもできない


「生物の体内に居る」という認識を持って街を散歩してみると
人々の賑わう所は代謝が活発だなあとか
複雑な都市を歩くたくさんの人々は神経伝達物質かなあとか思う
(人の感覚からは)巨大な意思の存在を感じてくる


部分から、見ることのできない全体のことを類推している
なんとなく、体内の微生物たちに共感する
人の中に暮らす生きものたち。総体が人の体、総体が人の心
街の中に暮らす生きものたち。総体が街の体、総体が街の心
よくできてると思う




小さな生きものと大きな生きものが共生する
小さな生きものは大きな生きものでもあり
大きな生きものは小さな生きものでもある


街という生きものも、更に大きな生きものの体内に暮らしてるんだろうなと思う
(人の感覚からは)広い空間と、長い時間がある
それぞれの街があり、それぞれの役割がある


街も自らの宿主の死を感じるのだろうか
街の宿主は何者なんだろう
今度訊いてみようと思う





そうなると、街の宿主にも宿主が居る、と考えるのが自然ですよね
宿主の宿主の宿主の……みたいな話になる
大きすぎるので、全然わからなくなっていく


全然わからなくなるっていうのが良いよな
地球は何番目かなあ

置いてけぼり

たまに電子機器の画面設定を弄って、グレースケールにして使うということをやる
色が抜け落ちることにより、新たな体験が生まれておもしろい
色がなくても支障がなかったり、意外なところで支障が出たりする


ほんとうは電子機器だけでなく、全視界から色情報を落としたい
不可能ではなさそうだけれど、ちょっと手軽に試すことはできない
(VRとかAR技術を使えば可能にはなっていると思う
光学的に色を無くせる眼鏡があればいちばんよいのだが)
とりあえずカラーセロハンを貼った眼鏡でもかけておけば良いのかもしれない


見慣れたものが様変わるのは楽しい
何だか転生を受けたような気持ちになる





何かできないかと思って、画面をグレースケールにした後
更に無音・字幕有の設定で色々な動画を見てみた
最新の映像でも古い映像のように見えるので不思議だ


映像の内容ではなく、質感が時代を司っているんだな、と思う
本当に古い映像のそれとは違うが、擬似的にそんな感じになる
コンテンツの外側に、時代性が宿っている


ブラウン管が古さを感じさせるようになった
液晶も古さを感じさせるようになっていくのだろう
現代のメディアがいずれ古くなるのは確かだが
未来のひとたちがどのような質感を古いなあと感じるのかはわからない
解像度とか色深度とか、そういうのとは少し違う所に映像の時代性が宿るような気もする


想像を巡らせるのは自由なので、今度は画面設定をカラーに戻し
未来のひとたちのつもりになって、古臭いなーという気持ちで4Kの映像に臨んだりした





その一方で、一周回って、古さが新しさになるということもある
最近カセットテープの音がかえって新鮮だということで、小さな再流行が起きているという話を聞いた
私はアナログ信号の砂嵐のようなビデオノイズには現代でも通用する格好良さがあると思っていて
時々見たくなる
映像でも音声でもデジタル編集でアナログテープ風の加工をする技術があるけど
そういうのは素敵な転倒だと思う
新しさは古くなり、古さは新しくなり、そうやって廻っていく





ある質感に対して過去を感じるか、未来を感じるか、ということを考えてみると
レトロゲーム機の電子音は、過去の音に聞こえると同時に、未来の音にも聞こえるように思う
「現代」という地点から遠くに居るなあ、という感覚だけがある
いつまでも手の届くことのない所に居るから、その音に惹かれる気がする


単に「今」を正しく感覚するのが難しいだけなのかもしれないが
いつでも古い質感を、いつでも新しい質感を、感じさせるようなものもあるわけです


古さと新しさが交互に循環しているのだとしても、時代性は年月とともに流れていくのが普通だ
そういう中で、輪の外に居るもの、流れから外れているものたちは尊い





過去で在り続けるもの
未来で在り続けるもの


時代の流れから外れたものたちは、格好良く「永遠」や「普遍」と呼ばれたりしますね
悪くはないんだけど、それだとちょっと世界観が垢抜けすぎていると思う
私は「取り残された」が素朴で好きです


「永遠」や「普遍」に対する憧れは特にないんだけど、「取り残された」にはとても憧れる
「置いてけぼり」の在り方が良い


ぼーっとしているとどんどん時代に流されてしまう
がんばって取り残されていかないとなあ

Fin

「エンドロール感覚」というものがある





田舎道の脇に
DyDoの自動販売機がある


二輪を停めて小銭を入れ
缶珈琲を買う


ガタン、と音がする


全く当たらないルーレットが回って
全く当たらないルーレットが外れる


ポイントカードがあったことに
いつも買ってから気付く


自動販売機が「ありがとうございました」と言う
誰にでもそう言うように、同じ音声で、「ありがとうございました」と、言う


その瞬間が、幕だと思う





瞬間、世界は私と自動販売機だけになる
物語が閉じていくのがわかる


全てがこの瞬間のために用意されていたのだ、というような気がしてくる
ありもしない風呂敷が畳まれていく感覚がある


笑いたくなると同時に、泣きたくなる
ああ、ここで世界が終わるんだな、と思う


缶珈琲を飲み、ため息をつけば
いよいよ終わりにふさわしくなる


ごみ箱に空き缶を投げる


画面が暗転する


エンドロールが流れ始める





……というような感覚が「エンドロール感覚」です


普段の生活の中で、なんとなく「この瞬間がクライマックスだ」と直観するポイントがあって
「あ、今エンドロール入ったな」と感じることがあるという、それだけのお話


まあそんなことを感じたところで世界は全然終わらないので
その後も淡々と日常は続くわけですが
ふと訪れる「エンドロール感覚」を感じるのが、なんか好きなのでした

7 ? 7

「7」がある
「7」だということしか知らない





私は滅多にゲームセンターに行かない
温泉宿やデパートにある寂れたゲームコーナーの雰囲気は好きで
そういう場所を訪れたときにはそこで遊ぶこともあるけれど
年に数えるほどしか筐体遊戯に興じる機会はない
そんな素人である私でも、「7」のことは知っている
世界で一番有名な7なんじゃないかと思う


「7」のシルエットを見るだけで
すぐにスロットマシンを連想することができる
「あ、あの『7』だ」と答えられる
「7」というイメージが、しっかりと記憶に刻まれている


しかし、スロットマシン以外の場所で、「7」を見かけた記憶が全くないことにも気付く
"Slot Machine 7"とでも呼ぶべき、独特な書体であると思う
そこでしか見ることができない、それでいて大変著名なデザインだ
遊戯場を強く想起させる、象徴的な存在だ


だから「7」のことはよく知っている
そして「7」が「7」であること以外は、何も知らない


本当はなんという名前の書体なのか
そもそも書体が存在するのか。果たして「7」以外の文字があるのか
いつからこの形が成立しているのか
どこの国の誰という人がデザインして、どの会社が使い始めたのか
「〜」という曲線の妙と、重厚でありながら軽快なウェイト、誰もが一度は目にするその赤い色
7が今の「7」になるまでに、そこにはどんな物語があったのだろうか


姿形には慣れ親しんでいるのに、姿形以外のことは何ひとつわからない
そんな「7」がある


溶けているなあ、と思う





「溶けている」というのは私の造語で
「人々に深く浸透していながら発祥が未詳な(または無視されている)状態」のことを指す


「溶けている」ものは色々ある
国内だけでも、文学なら竹取物語、音楽なら通りゃんせ、建築なら鳥居
そういうのはみんな溶けている
伝統的なものに限った話ではなく、インターネット・ミームにも溶けているものは多い


ありふれたものほど、記憶の片隅に染み付いている
道の駅で売られている、『龍をあしらった剣のキーホルダー』
旅館の机の上に置かれた木製の『The-Tパズル』
ファミリーレストランの会計の隣にある『おもちゃの販売コーナー』
そこにある『大判みかんがむ』
みんな出会う度に「溶けてるなあ」と思う


「そういうものだ」ということは誰もが知っているけれど
「そういうものだ」以外のことは誰も知らない
日常に溶け出し、人々の心に染み込んだ
何も問われることのないものたち


そういう「溶けているもの」がなんか好きで、つい探してしまう


溶けているものは「はじまり」を感じさせない
発祥が存在するのは確かだが、ずっと昔から居たように、しれっとそこに居る
何やら正体の掴めないままに、日常の深いところに居る


なんとなく、それそのものが独立した意思を持っているかのような雰囲気を感じる
解き放たれている、と思う。何から解き放たれているのかと訊かれてしまうと
うまく答えられないのだが


つくられたもの、というのは溶けて初めて、そこに命が、魂が、(場合によっては神性が、)
宿るような気がする
ただそこらへんに在るだけなんだけど、「ただそこらへんに在るだけ」に至ったことに
ただならぬ魅力を感じる





情報社会なので、「溶けているもの」の正体は調べればだいたい出てくる
中には資料や研究者が存在せず、本当に溶けきってしまったものもあるが
多くのものは、普段誰もそんなことを気にしていないだけなので、調べると起源が判明する


疑問が解決するのは喜ばしいことだ
ただ、そこには敢えて「調べない」という選択肢もある


溶かしたままにしておきたい、という気持ちがある
謎を謎のままにしておきたい、という気持ちがある
調べても調べても尚正体がわからないものに出会ったとき、「わからないんだ」となんだかほっとする
「はじまり」が辿れそうなものを見つけても、そのままそっとしておきたくなる


疑問が浮かべばもやもやする
誰かに答えを尋ねたくなる
隣の友達に、職場の同僚に、学校の先生に、研究所の専門家に、世界中の人々に
それでもわからなければ、最後は自分自身に
熱心に問い続ければ、きっと答えに近づけるだろう
知的好奇心を満たすことは人類の本能だ


でもそんな本能など何処吹く風で「解決に向かいたくない」という感覚も、あるのだ
解決できないから諦めるのではなく、最初から解決と反対方向に歩いてみたくなることがある
もやもやと友達でいたいと思う一日がある
煮え切らないものと仲良くするのはそんなに悪いことではないと思う
もやもやはもやもやで結構良いやつなのだ


「何のために」と怒られながら、買ったきり、封を切らずに、大事にしまっておきたいものが、ある





手品師は「種も仕掛けもありません」と言う
ほんとその通りだと思う
手品を見るのが楽しいのは、気持ちよく騙されることができるからだ
「種も仕掛けもない」と心から信じることができたとき、手品の魅力は最高になる


溶けているものの正体を調べるのは、手品の種明かしなのだ
調べれば、全てが明らかになる。一切の疑問は解決する
代わりに何かがそこから去っていき、もう二度と出会うことはない





「知らないことを知る」が尊いのと同じくらいに
「知らないことを知らないままにしておく」も、尊いよなあと思う


小さな「?」に出会ったときに立ち止まり
辞書を閉じ、携帯電話を伏せ、パソコンを眠らせる
「教えてあげる」という親切な人に「ありがとう。でもまた今度ね」と応える
そうすればまたいつか、再び巡り会うことができる





「7」がある
「7」だということしか知らない


それで良いのだと思う


それが良いのだと思う





その「?」が満たされないことに
いつまでも、満たされている

まんじゅうこわい

「いらない物リスト」というリストをつくった


いらない物リスト





ECサイトのAmazonには「ほしい物リスト」というサービスがある
サイト上で販売されている商品からほしい物をリストアップし、それを公開しておくと
第三者がそこから商品を購入し、リストの作成者に贈ることができるという仕組みだ
例えば友達や恋人が「ほしい物リスト」を公開していれば
そこから商品を選んで購入し、プレゼントとして贈る、といったことができる
素敵なサービスだと思う





公開されている誰かの「ほしい物リスト」を眺めるのはおもしろい
「ほしい物リスト」には作成者の価値観がありのままに出る
まるで人生を映し出す鏡のように、ひとつのリストにひとつの世界観が宿る
雄弁なリストもあれば、寡黙なリストもある
作成者の想いを乗せて、刻一刻とその姿を変えていく


「ほしい物リスト」は、一種の物語なのだと思う
私はその物語性に「ほしい物リスト」の真価を見る





語られないもうひとつの物語がある
それが「いらない物リスト」だ


真剣に「いらない物」だけを集めたリストが必要だと思う
「まんじゅうこわい」にならないように、細心の注意を払って


「いらない物リスト」のふりをして、そこに「ほしい物」を並べるのは簡単だ
しかしそれは、とても空虚だ


偽りによって欲望を叶えたとしても、大いなる器が満たされることはない
ちっぽけな私の「ほしい」を満足させることに、たいした価値はないと思う
そんなことよりもずっと得難いものが向こうで待っている
それを殺してしまわないように、決してそこに嘘を混ぜてはいけない


一片たりとも「ほしい」という気持ちの混ざっていないリストをつくってこそ意味がある
純粋な「いらない」という想いの集合は、果たしてどんな姿をしているだろうか
その姿を、ほんとうに大切にしなければならないような気がする


そういう物語の在り方を、形にしておきたいと思う





市場と呼ばれるシステムは全て「ほしい」の力学に基づいて設計されている
そこは溢れんばかりの「ほしい」からなる大河であり
全ての商品はほしがってもらうために存在している
だから大抵のものは、「ないよりはあった方がいい」へと落ち着く
「世の中にいらないものなんてない」
そんな言葉へと流れ着く


そういう場所で「ほんとうにいらない物」を探すのはとても難しい
「いらない物リスト」をつくってみると痛感する
世界の仕組みは圧倒的に「ほしい」に有利になっている


「どちらかといえばいらない物」ならばいくらでもある
しかし、いざ「いらない物リスト」に加えようとすると迷いが生まれてしまう
なんだかんだいらなくもないような気持ちが混ざってくる


真の「いらない」とは、相手との関係を心から拒絶することなのだ
大変な決断を下すことが求められる
「今までも、そしてこれからも、紛うことなくいらない」
そのハードルを越えられる物は滅多にない


だからそこには「ほしい物」が決して持つことのない輝きが生まれる
「ほんとうにいらない物」が愛おしくなる
「ほんとうにいらない物」との出会いに憧れるようになる


自分にとってはいらないが、世の中に存在している物がある
きっと誰かがそれを必要としているのだろう
もしかしたら誰にも必要とされていないのかもしれない
少なくとも今、それは確かにそこに存在している


有り難いなあと思う
ほんとうにいらない物たちだ





「いらない物」が必要だと思う
いらないからこそ、いる


「世界でいちばんおいしい料理」と「世界でいちばんまずい料理」
どちらかひとつしか食べられないとしたら
私はまずい方を選ぶだろう
そこに選択の余地はない
その感覚を、ほんとうに大切にしなければならないような気がする


「ほしい物リスト」はいらない
「いらない物リスト」はほしい
やっぱり世界観が出ますね





「いらない物リスト」は、選りすぐりのいらない物を私に贈ることができます
ほんとうにいらない物なので、ほんとうにいらない

おかえりー

夜寝る前の挨拶といえば「おやすみ」で
朝起きたときの挨拶といえば「おはよう」が定番ですが


夜寝る前に「いってきます」
朝起きたときに「ただいま」
を使うのが好きです


しっくりくる挨拶だと思う
眠りの世界へ出かけるのだ


朝目を覚ましてとりあえず
「ただいまー」と言ってみると

「帰ってきたなー」

という感じがする





長い夢から目覚めて間もないときなんかは
しばしば「こんなだったかな」と思うことがある


一瞬変なところに迷い込んだ気がする


旅行から帰ってきて、玄関の扉を開けた瞬間
自分の家の匂いに気付くときの気持ちに似ている


懐かしいんだか新しいんだか
ふわふわと曖昧な状態がしばらく続いて
「あ、日常に戻ってきたのか」という自覚が
後から段々と追いついてくる





日常が「戻ってくる場所」というのも妙な話だ


宇宙のほとんどは空っぽで
物体が存在している空間の方が特殊であるように
宇宙のほとんどは非日常で
日常が存在している空間の方が特殊だという感覚がある


変なところで暮らしてるよなあと思う





ひとはいつか目を覚まさなくなる


朝目を覚ましてとりあえず
「ただいまー」と言ってみると

「いずれ此処にも帰ってこなくなるんだけどなー」

という感じがする


「暮らしてる」がそもそも変だよなあと思う





宇宙のほとんどは死で
生が存在している空間の方が特殊だという感覚がある


「いってきます」と「ただいま」は逆なのかもしれない

サイレント・マジョリティ

ある屋内の施設に入った
「寒い」と思った
「あー強すぎる冷房だ。夏だなあ」と思った


その瞬間「夏は寒く、冬は暑い」という季節感があることに気付いた
それこそが、本当の現代の季節感の姿なのかもしれないということに





ライフスタイル次第なのだが
オフィス勤務などの屋内を主とした生活を送っているなら
一日のうち夏は冷涼、冬は温暖な場所に居る時間の方が長い


そして本当に季節を象徴するような温度の外気に曝される時間は短い
最近の外気温は強烈なので、健康の観点からも益々その傾向は強くなっていることだろう
いまどきの人たちは夏は冷やされた空間に、冬は暖められた空間に居る


そういう生活の下では「夏は暑く、冬は寒い」は一般論に過ぎなくなる
実態が伴っていない
実際の生活時間を占める割合、現実の体感を優先するならば
相対的に「夏は寒く、冬は暑い」の方が正しくなる


より具体的な例を挙げるなら
冷房を目一杯効かせた部屋で毛布にくるまる感覚や
暖房を目一杯効かせた部屋でアイスを食べる感覚
その季節感は間違いなく「夏は寒く、冬は暑い」が支配している


もちろんその「夏は寒く、冬は暑い」は前提として「夏は暑く、冬は寒い」ありきだ
しかし、現代都市文明の季節感は

「『夏は暑く、冬は寒い』ゆえに『夏は寒く、冬は暑い』」

にシフトしてきていると思う
主体は後者になってきている





乖離していく感覚がある
イメージから現実が遠ざかっていく感覚が


やがて「夏は暑く、冬は寒い」という本来の姿を実感するためには
夏は意図的に暑い場所へ、冬は意図的に寒い場所へ
自ら赴き、身を置く必要が出てくるだろう


「夏は暑く、冬は寒い」を取り戻すために
「夏は寒く、冬は暑い」を回避しなければならなくなる


世界が転倒していく





なんて静かな革命なんだろう、と思う
その静けさに感動する


「夏は寒く、冬は暑い」が
何も言わずにそこに居るのが素晴らしい


過去を尊重しつつ、ちゃっかりと侵攻を進めていく
真摯で強かな革命が起きている


静かすぎて、革命でもなんでもないかのように





「夏は暑く、冬は寒い」

それは声高に主張する
人々の強固なイメージを支え続ける
これからも決して覆ることは無いだろう
真っ直ぐな、表向きの季節感だ


「夏は寒く、冬は暑い」

それは声を上げたりしない
意志があるんだかないんだかわからない
いつの間にか人々の隣に居て
巨大な群れを成し、蠢いている





ほんとうの多数派はいつも静かだ
ただ黙って淡々と、その勢力を伸ばしている

水が落ちる

「雄大なもの」というのは、なんでか人を感動させる
そういうものを探すのは楽しい


遠くへ出かけなくても、身近に雄大なものはいろいろある
例えば夕焼けや星空なんかは人々に敬われ、しばしば鑑賞の対象にされている


そんな中、雨は舐められてるなあ、と思った


水資源の豊かな国なので、雨など珍しくもないのはわかる
現代社会では中々「実り」と「雨」の直結がなく、雨の「恵み感」が薄くなっているのもわかる
そんなことより物や人が濡れるので、単純に迷惑というのもわかる


しかし、視界全体に水が降り注ぐのは、考えてみると驚異だと思う
雨は、とても雄大レベルが高い


見た目だけでもけっこうな話なのだが
音響もたいへん複雑だし、匂いも複雑だ
ゆっくり落ち着いて味わうことができれば
雨にはその他の自然の風景に決して引けを取らない感動がある





どうも過小評価されている気がする
滝にも劣る存在と思われている節がある
「滝のような雨」という表現に雨の舐められっぷりが端的にあらわれている
「通常より強い雨」をあらわす言葉なのに、むしろ弱いものと同列にされている


ほんとは雄大レベルが逆なのだ
例え小雨でも、滝と比べれば雨の方がずっと雄大だ
雨は広範に、長時間降り注ぐために、体感上の強度が薄められているだけだ


たぶん音量とか、打たれたときの衝撃の強さとか、限定的な情報に基づく類推だけで
「この雨は……滝みたいな感じだな。『滝のような雨』!」ということにされてしまったのだろう
滝は局所的な力がとても強いだけで総合力では完全に雨が勝っていると思う


豪雨にならないと雨は滝と比較してもらえない
宇宙から、滝の姿は小さすぎて見えないが、雨雲の姿ははっきり見える
それくらい両者は桁が違うというのに





普段の雨を見ながら滝を上回る迫力を感じている人がどれだけ居るだろう


私も、このことに気付くまでは完全に舐めていたので、雨は滝より迫力ないと思っていた
近くに滝があるなら「滝見に行くか」とはなるけど
「夕焼けでも見るかな」の感覚で「雨でも見るかな」とはならなかった
申し訳ないことをした


雨、迫力ないと思ってしまうとない
それは完全に見る側の問題なのだ


今なら雨の見方がわかる
ぱらぱらと弱く降っている雨でも
その降っている土地の規模、降り続けている時間、トータルの水量
目、鼻、耳、五感すべてに入ってくる情報
そういうものにきちんと相対すると、こりゃやべえなと思う
雨は雄大なのだ。思っているよりは。ずっと





滝にも雨にも、異なる良さがある
こちらが味わい方を切り替える必要がある
きちんと相手に合わせれば、どちらも正しく大自然の営みしており、感動的だ
雨の雄大さを見直すことで、感覚をチューニングすることの大切さを学んだのであった


「滝を見に行ったら雨に降られた」となるのが最高なのかもしれない
いや危ないなそれは





さて、それでは他にも何かないのだろうか
こうなると気付いていないだけで、身近にまだ雄大なものがありそうな気がする
雨を見落としていたように、こちらの感覚を相手に合わせていないために見落としているものが


そこで考えた
滝は局所的に強いという性質により、規模の大きな雨と感覚的に比肩するのだった
それならば滝よりもっと規模が小さくても、局所的な力がものすごく強い現象があれば
小さな空間に雨や滝に匹敵する雄大レベルが発生するのではないだろうか
そういうものを体験すれば、雨や滝と同じように感動を得ることができるのでは?


果たして滝よりコンパクトで滝より迫力のある現象なんてあるのだろうか……





しばらく考えて、それが存在することに気付いた
というより、人々が無意識にそういうものの存在を感じてとっていたことに気付いた
日本語の中に、それを捉えた言葉を見つけた


「バケツをひっくり返したような雨」だ


すごい表現だと思う
これを最初に感覚したひとは並一通りの感性ではない
それでいて即座に人々に受け入れられる感性でもある


「バケツをひっくり返すと大自然の営みに匹敵する」


無茶苦茶なようで、誰も疑問に思っていない
驚くほど違和感なく皆この言葉に納得している
仮説としては完璧だ





理論は実践を伴わなければならない
倉庫からバケツを持ってきて、水をいっぱいに溜める
規模を、時間を、感覚を、訪れるものに合わせよう
五感を総動員し、全力で鑑賞する必要がある


バケツをひっくり返す


水が落ちる


瞬きほどの時間の中に凝縮された、雨や滝に匹敵する雄大さ


感動が、そこに生まれているはずだ

うん

Googleの検索ボックスに「うんともすんとも」と入力すると、予測の一覧に
「うんともすんとも すん」が出て来る
たくさんの人が同じことを疑問に思って調べたのがわかる


「『うんともすんとも』の『すん』ってなんだよ」


これは既に数多の議論がなされてきた、枯れた話題だと思う
なのでこの疑問の答えがなんなのかという話をする気は特にないのですが


「『すん』がよくわからんと言うのなら、『うん』の方も同じくらいよくわからんのでは?」


という話は記しておいた方がよい気がする





あまりにも一般的な既存の言葉、「承諾の『うん』」が存在してしまったがために
「すん」の方ばかり疑問視される、という現象がそこに発生しているように見える


しかし例えば「うんともすんとも言わない」は、反応のないもの全般に使える言葉だ
機械だろうが岩だろうが、そもそも承諾の意志など持ち合わせていないものたちにも
普通に適用されている


この「うん」は本当に「承諾の『うん』」なのだろうか
擬人化が起きていて、機械が「うん」と言ってる感覚なのか……?
うーん……
……うん?
「うーん」の「うん」なのか?いや、「うん?」の「うん」か?


いろいろ考えられますが、とりあえず
「うんともすんとも」の「うん」が果たしてあの馴染み深き「承諾の『うん』」
日頃使っている「うん」と同一であるかどうか
これがとても怪しいことだけはわかる
よしんば同一であるとしても、ぜんぜん自明な話ではない


「うん」の方もなかなかよくわからん代物なのではないだろうか


ただ「普段からすごくよく使っている文字列だから」というだけの理由で「うん」の方は素通りされ

「うんともすんとも……『すん』……?」

と、「すん」の方ばかりが人々を引っかけ続けている
「うん」も「すん」もよくわからん度は大差ないのに、人々は「すん」の方に集まっていく
Googleの検索予測に「うんともすんとも うん」は出てこない





「『すん』って何?」という話の中身よりも
その背後で暗躍している存在のことがどうにも気にかかる
人々に「うん」を素通りさせ、「すん」へと導いていく、そんな力を湛えた、隠れた存在のことが


「うん」とか「すん」とかの議論を始める以前の段階で、両者の間に無意識に強い偏りが発生している
「『うん』の方はまあ別に追求しなくてもいいよね感」が勝手に人々に共有されている
誰が望んだわけでもなく、そういう現象が自然発生しているのだ。それがおもしろい


確かに何かがそこに居るのを感じる
「うんともすんとも」の後ろに隠れている、強い力を持った何かが
きっと他の言葉にも同じように隠れているのだろう
そしてこの文章にも


みんな自由に考えていながら、思考の分布は均一にならない
無限の表現力がありながら、言葉には強い指向性があらわれる
束縛するものはどこにもないのに、心は弄ばれている


辿り着いたのではなく、ただ運ばれただけなのだという気がしてくる
思い思いに泳いできたつもりが、みんな「すん」という島へ流れ着いていく





結論とは、人がそれを導くものではなく、人がそこへ導かれるものなのではないだろうか
人の意志が言葉を操っているというよりは、言葉が人の意志を操っている
その方がしっくりくるものがある


私が言葉を書いているのではなく、言葉が私に書かせている
この文章は、そういう結論へと導かれている


隠れた存在の力で

虫眼鏡

少し前にパソコンのディスプレイを解像度が高いやつに換えた
そのときはデスクトップの表示が以前に比べすごく広くなって驚いたんだけど
今やすっかり慣れてしまい慣れというのは不思議なもんである


そしてふと、最近のパソコンの容量の大きさ、その本来の能力からすれば
今表示されているデスクトップの広さなんて全体のごく一部
氷山の一角なのではないだろうか、と思った
もしかすると砂漠の角砂糖くらいでしかないのかもしれない


そう思うと急に広いデスクトップの姿も虫眼鏡を覗いているかのように見えてくる
ディスプレイの枠の外側に広大なピクセルの海が広がっていて
その中のとてもとても小さな水面(みなも)しか見えていないような気がしてくる


これは拡大図なのだ
果たして本体はどれくらい大きいのだろうか


テニスコートよりは広いだろうな
テニスコートの地面が全部デスクトップ画面になっている様子を想像する
その大きさを、できるだけ本当に目の前に存在しているように、ありありと思い描いてみる
そのくらいの大きさなら到達していそうだ


それでは東京ドームと比べてどうだろう
この街と比べてどうか。日本列島となら?


まあまだデスクトップくらいのレベルなら、そこまでのスケールには届いてないかなと思う
計算はしてないので勘ですが





それからインターネットブラウザを開く
そう、そうなのだ。これも同様に、虫眼鏡なのだ
そして、デスクトップよりはるかにやばいやつである


この虫眼鏡は、もっとずっと大きなものと繋がっている
広い海に浮かぶ、小さな1ページだけを拡大して、それを見ることができる
しかし、水面に近づけた顔を上げる方法はない


もしブラウザの枠を外して、インターネット全体の姿を一望することができたなら
その風景は、現実の浜辺で海を眺めたときと同じくらい雄大で
感動的なんじゃないかという気がしている


あるいは地平線まで続く広大な大地の景観、あるいは満月の夜、満天の星空の
そういったものたちとも渡り合えるかもしれない
事によっては、もう既にそういったものたちに勝っているかもしれない


人類は割とたいへんなものを創ってしまった。全体の想像はまるでつかない
直感的にはそういうスケール感があるのだが
実際に画面に映して見られるのはひとつのwebページだけだ


とてつもなく壮大な景色が画面の向こうに存在している
それは確実なのだが、その景色を見た人はまだいない
それを映し出すことのできる道具が、世界にはない
いつまでも虫眼鏡を使っている場合ではないと思うが
残念ながらこれしかない





今日も今日とて、一本の虫眼鏡を手に地面に近づき、足下を征く蟻たちをじっと観察し続けている
その足下がグランド・キャニオンの大地であるとは気づかぬままに


決して、顔を上げることなく

めっちゃうごく

幼い子供を眺めているとまず立ち止まるということをしない
活発に運動していて、めっちゃうごいてるなあと思う
子供に限らず、私はめっちゃうごいてる人を眺めるのがなんか好きである
(自分でめっちゃうごきたいとはあんまり思わないのだが)


しかしやはり、どこでもめっちゃうごいてるのはだいたい子供であって、大人は静かなものである
大人の運動は、程よく力が制御されているかんじがある
何か特別な行事でもない限り大人が本気でめっちゃうごいてる様子は見られない
ちょっと残念に思う


「大人しくする」という言葉があるが、字面がもう大人を想定してますよね
「静かにする」というのは本来訓練を要する特殊技術なのだ
子供がめっちゃうごくのは、生きものの理にかなってる


生きものにとっては、動くより止まる方がずっと難しい
完全に止まることに挑戦してみると、静止状態を保つのがいかに難しいかがよくわかる
踊りの世界でも止まるのがいちばん難しいみたいな話を聞いたことがある


もし周りから見て完全に止まることができたら、生きものの枠から外れてしまうんじゃないだろうか
普段止まって見える生きものも、実際は必ずゆっくりうごいている
瞑想のひとたちは本気で止まって静かにしてるから
生きものの枠を外れ、宇宙とひとつになれるのかねえ
激しく運動する瞑想というのは、ちょっときいたことがない


宇宙的には人間が静止してようが運動してようが誤差だと思うんだけどな
めっちゃうごきながら宇宙と一体化する技術ってないのだろうか


赤ん坊はめっちゃうごいてるけど、宇宙と一体化できてる気がする
学ぶべきところがある

らめられよ

「一度ならず二度までも」


という言葉が急に浮かんで
定型句だけど、実際の日常生活で使ったことはないなあと思った
口にしてみたいけど、使う機会がこれといってない


句を分解すると割と親しみのある要素で構成されているのだが
この配置にすると日常から隔絶の感ある響きになりなんか不思議
普通に使ってる人もいるのかしら


「一度ならず二度までも!?」


一回くらいはそう言っておおきな声で驚いてみたいですね
一回やれば満足すると思う


「今生諦められよ」


は声に出してみると気持ちよくてすごくお気に入りなんですが、輪をかけて使う機会がない
分解しても馴染みのない要素ばかりなので仕方ないのかもしれない
命令形で「られよ」を使う機会がまずもってない
意味も問題ですね。「覚悟!」とか「天誅!」とかもいまどき使わんしなあ
しかし「今生諦められよ」は語感が素晴らしいので、これはなんとかして使いたい


何がそんなに良いんだろうな
音楽的な何かを感じてはいるのだが
「こんじょう」でゆっくりと立ち上がり
「あき」のアタック感から
「らめられよ」と畳み掛けてくる感じか
「らめられよ」のダイナミズムだな。舌が躍動している。らめられよ
とにかく、このまま歴史に埋もれさせるにはあまりに惜しい逸材なのだ
うーむ……


……あ、害虫を退治するときとかに使えばいいのか
虫は極力殺さないようにつとめているんですが、殺さざるを得ない相手も居る
「拙者は無益な殺生は好かぬ。されど相手が救い難き悪とあらば致し方あるまい」
みたいな状況なわけだし、世界観としてもぴたりとあてはまるんじゃないだろうか


「今生諦められよ……!(殺虫剤を撒く)」


なかなか悪くないのではないでしょうか。良い閃きなので今度試します
日常行動としてはすこし攻めすぎの感があるが
一回やれば満足すると思う


然るべきタイミングで音として発せられてこそ輝く言葉、ありますね
日常生活で無理なく使っていける限界は「まことに ?」くらいまででしょうか
私は「マジ?」系よりも響きがやわらかくて好きなので
使えそうなときは「まことに?」を使うのですが
まだ多少ギリギリ感が残っていてひやりとします
「ほんと?」はちょっと優秀すぎるな。長所であり短所でもある
当たり障りがないし、当たり障りがない


「しまった!」はまだ大丈夫だけど、「不覚!」はちょっともう駄目な気がする
「南無三!」は今どっちだろうなあ。一見ぜんぜん駄目そうだが、案外いけてしまいそうだ
今は駄目でも、何かの拍子に息を吹き返す言葉というのもある
口にしてこそ楽しいんだけど、なかなか扱いが難しい言葉たち


そういう言葉が、まだまだ眠っていると思う

七味唐辛子

砂漠に一本だけ木が生えているのを見たら、じっくりとその木を観察したくなるが
山のようにある一粒一粒の砂の方はなかなか観察しないと思う
逆に森に居て木がいっぱい生えていたら、今度は一本一本の木を観察しようとはしなくなる


身の回りの品々を見ると、配慮に溢れているなと思う
ちょっとすごい量あるなと思う
ありがたいことなのだが、存在しすぎているので
普段からありがたさを見つけてやるぞと心構えていないと素通りしてしまう
当たり前のようにこちら側のどこからでも切れる袋がついてきてる
これはすごいことなのです。並大抵の話ではない


色々な商品のパッケージを観察すると、使いやすくするための工夫のひとつやふたつはある
コンビニ弁当の蓋のツメが上下でちょっとだけずれていたりとか
指を入れやすい隙間が残るようになってたりとか
「こうすると良いよな」という誰かの配慮がさりげなく存在しているのがわかる
そういうのを見つけると、あー行き届いてるな、と、もはやこれ以上何も望まぬきもちになる
まあ、全くなんの配慮も見つからない商品もあり、それはそれでストイックでかっこいい
そういうのもまれにある


もちろん、まだ足りぬ、私はそんな行き届き認めないぞ、と心構えてしまうとけっこうきりがなくて
更に「もっとこうすればいいのに」という余地もがんばって探せばある
開発のひとたちはそれを探してそうな気がする
その余地を新たな力にして配慮はどんどん成長していく


最近の配慮はたいへんなことになっていると思う
こちら側のどこからでも切れてしまうんですよ
こちら側のどこからでも切れなくても別に困らないのだが
もはやこちら側のどこからでも切れないと困るのだ


カップうどんには七味唐辛子の小袋が入っている
その事実に毎回感動している
完全に行き届いている
必要なものが、必要なだけ、存在している
そこに完成されたひとつの物語がある
なにひとつ足す必要はなく
なにひとつ引く必要もない
世界は完璧だ

街灯

夜道を歩いていると、ふと街灯に虫が全然集まっていないことに気付いた
調べるとどうやら知らないうちにLED式に取り替えられたらしく
発する紫外線が少ないため虫が寄りにくいそうだ
つまり虫というのは人の可視光はどうでもよくて、不可視光に集まっていたということで
同じ世界に居ても、全く別の世界を見ていたんやなあと、ひとつ学んだのであった
新しい街灯は見た目変わってないが、たぶん虫にとってはすごく暗くなった感じなのだろう


街灯の周りを虫たちが飛んでいる光景に
無機的なものと有機的なものの共存を感じて神秘的で好きだったのだが
虫がぜんぜん居なくなってしまったので、新しい街灯は私の感覚では街灯ではなくなってしまった
街灯らしくない街灯という、不思議な街灯である。そのうち慣れてしまうのでしょうけど
いずれは、街灯に集まる虫という風景も人々から忘れられていくのかもしれない。諸行無常だ
そうやって巡り巡って、結局街灯は人間にとっても見た目変わっているのだ


しみじみ症候群なのですぐにうーん存在してんなあとか繋がってんなあとかしみじみしてしまう
紫外線など肉眼で捉えられるはずもないんだけど
虫たちの存在を介して紫外線の多寡を感じることができる
全く別の世界を見ていても、同じ世界に居るんやなあと、ひとつ学んだのであった
人間もじぶんたちの存在を介して虫になんかを伝えているのかもしれぬ
よくできてる