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水が落ちる

「雄大なもの」というのは、なんでか人を感動させる
そういうものを探すのは楽しい


遠くへ出かけなくても、身近に雄大なものはいろいろある
例えば夕焼けや星空なんかは人々に敬われ、しばしば鑑賞の対象にされている


そんな中、雨は舐められてるなあ、と思った


水資源の豊かな国なので、雨など珍しくもないのはわかる
現代社会では中々「実り」と「雨」の直結がなく、雨の「恵み感」が薄くなっているのもわかる
そんなことより物や人が濡れるので、単純に迷惑というのもわかる


しかし、視界全体に水が降り注ぐのは、考えてみると驚異だと思う
雨は、とても雄大レベルが高い


見た目だけでもけっこうな話なのだが
音響もたいへん複雑だし、匂いも複雑だ
ゆっくり落ち着いて味わうことができれば
雨にはその他の自然の風景に決して引けを取らない感動がある





どうも過小評価されている気がする
滝にも劣る存在と思われている節がある
「滝のような雨」という表現に雨の舐められっぷりが端的にあらわれている
「通常より強い雨」をあらわす言葉なのに、むしろ弱いものと同列にされている


ほんとは雄大レベルが逆なのだ
例え小雨でも、滝と比べれば雨の方がずっと雄大だ
雨は広範に、長時間降り注ぐために、体感上の強度が薄められているだけだ


たぶん音量とか、打たれたときの衝撃の強さとか、限定的な情報に基づく類推だけで
「この雨は……滝みたいな感じだな。『滝のような雨』!」ということにされてしまったのだろう
滝は局所的な力がとても強いだけで総合力では完全に雨が勝っていると思う


豪雨にならないと雨は滝と比較してもらえない
宇宙から、滝の姿は小さすぎて見えないが、雨雲の姿ははっきり見える
それくらい両者は桁が違うというのに





普段の雨を見ながら滝を上回る迫力を感じている人がどれだけ居るだろう


私も、このことに気付くまでは完全に舐めていたので、雨は滝より迫力ないと思っていた
近くに滝があるなら「滝見に行くか」とはなるけど
「夕焼けでも見るかな」の感覚で「雨でも見るかな」とはならなかった
申し訳ないことをした


雨、迫力ないと思ってしまうとない
それは完全に見る側の問題なのだ


今なら雨の見方がわかる
ぱらぱらと弱く降っている雨でも
その降っている土地の規模、降り続けている時間、トータルの水量
目、鼻、耳、五感すべてに入ってくる情報
そういうものにきちんと相対すると、こりゃやべえなと思う
雨は雄大なのだ。思っているよりは。ずっと





滝にも雨にも、異なる良さがある
こちらが味わい方を切り替える必要がある
きちんと相手に合わせれば、どちらも正しく大自然の営みしており、感動的だ
雨の雄大さを見直すことで、感覚をチューニングすることの大切さを学んだのであった


「滝を見に行ったら雨に降られた」となるのが最高なのかもしれない
いや危ないなそれは





さて、それでは他にも何かないのだろうか
こうなると気付いていないだけで、身近にまだ雄大なものがありそうな気がする
雨を見落としていたように、こちらの感覚を相手に合わせていないために見落としているものが


そこで考えた
滝は局所的に強いという性質により、規模の大きな雨と感覚的に比肩するのだった
それならば滝よりもっと規模が小さくても、局所的な力がものすごく強い現象があれば
小さな空間に雨や滝に匹敵する雄大レベルが発生するのではないだろうか
そういうものを体験すれば、雨や滝と同じように感動を得ることができるのでは?


果たして滝よりコンパクトで滝より迫力のある現象なんてあるのだろうか……





しばらく考えて、それが存在することに気付いた
というより、人々が無意識にそういうものの存在を感じてとっていたことに気付いた
日本語の中に、それを捉えた言葉を見つけた


「バケツをひっくり返したような雨」だ


すごい表現だと思う
これを最初に感覚したひとは並一通りの感性ではない
それでいて即座に人々に受け入れられる感性でもある


「バケツをひっくり返すと大自然の営みに匹敵する」


無茶苦茶なようで、誰も疑問に思っていない
驚くほど違和感なく皆この言葉に納得している
仮説としては完璧だ





理論は実践を伴わなければならない
倉庫からバケツを持ってきて、水をいっぱいに溜める
規模を、時間を、感覚を、訪れるものに合わせよう
五感を総動員し、全力で鑑賞する必要がある


バケツをひっくり返す


水が落ちる


瞬きほどの時間の中に凝縮された、雨や滝に匹敵する雄大さ


感動が、そこに生まれているはずだ