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鉄の味がする水

普段飲み物を飲むときは、真空断熱タンブラーというものを常用しておりまして
それを使う度に感じていることがあるので記しておこうと思います





「真空断熱タンブラー」で画像検索していただければ、それがどんな見た目をしているかわかるだろう
意匠に細かい違いはあるけれど、基本的にはステンレスでできた、何の装飾もない全面金属の器だ


私は普段その器にあまり上等でない烏龍茶を注いで飲んでいるのだが
その行為は現実とのやむを得ぬ妥協点であって、あるべき姿ではない
そのあるべき姿でなさを、日々ひしひしと感じている


あまり上等でない烏龍茶というやつは、あまり上等でない盆に並んだ
あまり上等でないガラスのコップをひとつ手に取って注ぎ
あまり片付いていない机の上にそれを置いて、飲むべきだと思う


コップから流れ落ちた滴が机に描く円い輪が、世界を完結させる魔法陣なのです
私は毎回大変申し訳ない気持ちになりつつ、結局件の真空断熱タンブラーを使って烏龍茶を飲む
どうすることもできないことは、どうすることもできない





器と中身には、あるべき姿というものがある
ビールがジョッキに、ワインがワイングラスに、緑茶が湯呑みに注がれるとき
そこに完結された世界が宿る


鋳型を見れば、そこに鋳物の姿が映るように
器を見れば、そこに器を満たすべきものの姿が映る


ラムネの瓶はラムネで満たされるからラムネの瓶なのであって、それを忘れてはいけないわけです
ラムネの瓶に葡萄酒を入れたって別に構わないのだけれど
それをやる人は「ラムネの瓶にはラムネ」というあるべき姿の方を、重々承知していなければならない


世界は自由なのだけれど、自由は思慮深さを求める
物事を「守破離」の「破」から始めてはいけないのだ


「真空断熱タンブラーに烏龍茶」は完全に「破」なので
「守」に対する敬意をもってやらなければならない
謝というか、贖というか、そういう心が必要だと思う




ほんとうに先立つのは「守」の方なのだ
鈍色の金属光沢を放つその器に、満たされるべきものの姿が、まず何よりも先に在る


それは烏龍茶では、決して、ない


それは「鉄の味がする水」だと思う


真空断熱タンブラーは、その時を待っている
ずうっと昔から、待っている


地下深く、日の当たらないじめじめとしたアーケードで
ごちゃごちゃした路地の裏にある傾いた蛇口をひねると出て来る水
長く入り組んだぼろぼろの配管を抜けて、ほんのりとかすかに赤黒く染まった水


その器は、その記憶を持っている。その味を識っている
その器は、そういう場所からやってきたのだ


その器を見れば、それを満たすべきものの姿が映る
明日はあるけれど明後日はない老人から
すえた油の匂いを纏った鼠の唐揚げの食べ方を教わりながら
幼い子供が鉄の味がする水を飲む
老人は笑って、やたらと度数が高いだけの酒を飲む
そのときに、彼らが手にしているのが、その器なのだ


格好良いっていうのは、格好が良いということだ
世界(=格好)が完結している(=良い)ということだ


だから器の世界を完結させる必要がある
しかし、この文章を書いている今も、私は結局いつも通り烏龍茶を飲んでいる
世界を宙ぶらりんのままにしている


仕方のないことなのです
鉄の味がする水は、此処では、望んで手に入る代物ではないのです
鉄の味がする水は、此処では、あまりに上等でなさすぎたのです


それは方便でなくまことの事実だが、器は語りかけてくる
「鉄の味がする水を殺してしまったのは、あなたたちだ」と





誰にも助けを求めることなく静かに
鉄の味がする水は殺された


公園の水さえ、此処では綺麗に澄んでいて
鉄の味がする水は、どこを探しても見つからない


だから器の言い分は尤もなのだ
ほんとうに、ただただ申し訳ない気持ちになる


私たちが鉄の味がする水を殺したし、今でも殺し続けている
私たちには殺めているという自覚が無い


だから私たちは平然として、此処からあまりに上等でなさすぎるものたちを排除していく
それで最後にどうなるかはわかりきっている
此処には、あまりに上等でなさすぎる私たちが残るのだ


誰にも魔法陣を描くことができなくなる前に
此処から逃げ出す方法を考えなければならないような気がしている


だって鉄の味がする水は殺されてしまったのだ
もう綺麗な水しか飲むことができない
私たちは取り返しのつかないことをしている


完結の時は来ない
器はずっと待ち続けている
私にはどうすることもできない


此処の水は美味しい
だから此処は、とてもおそろしいところなのだ