喉が渇いているとき、「喉が渇いている」と言うけれど
喉そのものはそんなに渇いてないと思う
「喉が渇いている」は、正確には身体が渇いている状態だ
水分の入口は喉だけれど、本当に渇いている場所は喉ではない
「お腹が空いた」というのも、空いている場所はお腹ではない
空腹は全身のエネルギーが欠乏している状態で、お腹以外の場所にもいろいろな症状が出る
言葉は、言葉通りではないのです
私はアホなのでそのことがよくわかっておらず
お腹が空くのはお腹が空いたときだけだと思っていた
おかげで「お腹以外の場所からくる欠乏感覚」も空腹と呼ぶのだと気付くまでに随分かかった
「身体がだるい」や「眠れない」といった状態も「お腹が空いた」と呼んで良いのだと学んでから
ようやく「お腹が空いた」の正しい感覚を認識できるようになった
「なるほどなー」と思い、そして「お腹が空いたって全然お腹の話じゃないんだなあ」と思った
自身の感覚についてそこまで鈍いのは私がアホゆえなのだが
多少なり言葉には人の感覚を限定したり、混乱させる力があると思う
「喉が渇く」という言葉が存在するおかげで、水分不足を感じたときに
無意識に神経を喉の周辺に集中させてしまうようになる
「本当に渇いている場所」を見失わせる
その力は、呪いに似ていると思う
知っている言葉が増えるほどに、実体からは遠ざかる
「肩が凝る」という言葉を知らない方が
肩が凝るときの身体の違和感の姿を正確に感覚できると思う
肩が凝るとき、本当に凝る場所は肩ではないからだ
その姿形が、毎回少しずつ異なっていることもわかる
「心が寒い」なんて言うときも、実際寒いのは心ではないのかもしれない
誰かに手を握ってもらうだけで心の寒さは解決したりする
やっていることは「手が寒い」と全然変わらないのだが
「心」という抽象的な言葉が、単純な問題を難しくしている
「痛い」という言葉が存在しなかったら「痛み」もまた存在しない、は流石に言い過ぎだけれど
「痛み」という感覚と「痛い」という言葉が過不足無く対応できているかというと
全然できてないと思う
今日の「喉が渇いた」と昨日の「喉が渇いた」は
似ているけれど、同じではない
雲のようにふわふわと、輪郭を持たない言葉たちが、それらを同じことにしている
言いたいことは、言ってしまうと遠ざかる
言いたいことを十全に言うためには
一切口を閉ざしておくか、あるいは無限に弁を弄するか
いずれかしかない気がする
発すれば、ずれる。ずれれば、離れる
翻訳せずに済む話は、翻訳しない方がいい
とにかく全部をそのまま感覚しようとしてみれば
いろいろなことがわかり
いろいろわからないということもわかる
身体から送られてくる膨大な情報を「喉が渇いた」にまとめたとき
うーん遠ざかったなあ、と思う
それが良いとか悪いとかは無い
ただ、遠ざかったなあ、と思う
言葉はお喋りなので
放っておくとどんどん遠ざかってしまう
遠ざかりすぎるのはちょっとまずい気がするので
そういうときは、少し耳を澄ませるように心がけたい
耳を澄ませて、たくさんの声を聞く
澄ます場所は、耳ではない
喉そのものはそんなに渇いてないと思う
「喉が渇いている」は、正確には身体が渇いている状態だ
水分の入口は喉だけれど、本当に渇いている場所は喉ではない
「お腹が空いた」というのも、空いている場所はお腹ではない
空腹は全身のエネルギーが欠乏している状態で、お腹以外の場所にもいろいろな症状が出る
言葉は、言葉通りではないのです
私はアホなのでそのことがよくわかっておらず
お腹が空くのはお腹が空いたときだけだと思っていた
おかげで「お腹以外の場所からくる欠乏感覚」も空腹と呼ぶのだと気付くまでに随分かかった
「身体がだるい」や「眠れない」といった状態も「お腹が空いた」と呼んで良いのだと学んでから
ようやく「お腹が空いた」の正しい感覚を認識できるようになった
「なるほどなー」と思い、そして「お腹が空いたって全然お腹の話じゃないんだなあ」と思った
自身の感覚についてそこまで鈍いのは私がアホゆえなのだが
多少なり言葉には人の感覚を限定したり、混乱させる力があると思う
「喉が渇く」という言葉が存在するおかげで、水分不足を感じたときに
無意識に神経を喉の周辺に集中させてしまうようになる
「本当に渇いている場所」を見失わせる
その力は、呪いに似ていると思う
知っている言葉が増えるほどに、実体からは遠ざかる
「肩が凝る」という言葉を知らない方が
肩が凝るときの身体の違和感の姿を正確に感覚できると思う
肩が凝るとき、本当に凝る場所は肩ではないからだ
その姿形が、毎回少しずつ異なっていることもわかる
「心が寒い」なんて言うときも、実際寒いのは心ではないのかもしれない
誰かに手を握ってもらうだけで心の寒さは解決したりする
やっていることは「手が寒い」と全然変わらないのだが
「心」という抽象的な言葉が、単純な問題を難しくしている
「痛い」という言葉が存在しなかったら「痛み」もまた存在しない、は流石に言い過ぎだけれど
「痛み」という感覚と「痛い」という言葉が過不足無く対応できているかというと
全然できてないと思う
今日の「喉が渇いた」と昨日の「喉が渇いた」は
似ているけれど、同じではない
雲のようにふわふわと、輪郭を持たない言葉たちが、それらを同じことにしている
言いたいことは、言ってしまうと遠ざかる
言いたいことを十全に言うためには
一切口を閉ざしておくか、あるいは無限に弁を弄するか
いずれかしかない気がする
発すれば、ずれる。ずれれば、離れる
翻訳せずに済む話は、翻訳しない方がいい
とにかく全部をそのまま感覚しようとしてみれば
いろいろなことがわかり
いろいろわからないということもわかる
身体から送られてくる膨大な情報を「喉が渇いた」にまとめたとき
うーん遠ざかったなあ、と思う
それが良いとか悪いとかは無い
ただ、遠ざかったなあ、と思う
言葉はお喋りなので
放っておくとどんどん遠ざかってしまう
遠ざかりすぎるのはちょっとまずい気がするので
そういうときは、少し耳を澄ませるように心がけたい
耳を澄ませて、たくさんの声を聞く
澄ます場所は、耳ではない