「7」がある
「7」だということしか知らない
私は滅多にゲームセンターに行かない
温泉宿やデパートにある寂れたゲームコーナーの雰囲気は好きで
そういう場所を訪れたときにはそこで遊ぶこともあるけれど
年に数えるほどしか筐体遊戯に興じる機会はない
そんな素人である私でも、「7」のことは知っている
世界で一番有名な7なんじゃないかと思う
「7」のシルエットを見るだけで
すぐにスロットマシンを連想することができる
「あ、あの『7』だ」と答えられる
「7」というイメージが、しっかりと記憶に刻まれている
しかし、スロットマシン以外の場所で、「7」を見かけた記憶が全くないことにも気付く
"Slot Machine 7"とでも呼ぶべき、独特な書体であると思う
そこでしか見ることができない、それでいて大変著名なデザインだ
遊戯場を強く想起させる、象徴的な存在だ
だから「7」のことはよく知っている
そして「7」が「7」であること以外は、何も知らない
本当はなんという名前の書体なのか
そもそも書体が存在するのか。果たして「7」以外の文字があるのか
いつからこの形が成立しているのか
どこの国の誰という人がデザインして、どの会社が使い始めたのか
「〜」という曲線の妙と、重厚でありながら軽快なウェイト、誰もが一度は目にするその赤い色
7が今の「7」になるまでに、そこにはどんな物語があったのだろうか
姿形には慣れ親しんでいるのに、姿形以外のことは何ひとつわからない
そんな「7」がある
溶けているなあ、と思う
「溶けている」というのは私の造語で
「人々に深く浸透していながら発祥が未詳な(または無視されている)状態」のことを指す
「溶けている」ものは色々ある
国内だけでも、文学なら竹取物語、音楽なら通りゃんせ、建築なら鳥居
そういうのはみんな溶けている
伝統的なものに限った話ではなく、インターネット・ミームにも溶けているものは多い
ありふれたものほど、記憶の片隅に染み付いている
道の駅で売られている、『龍をあしらった剣のキーホルダー』
旅館の机の上に置かれた木製の『The-Tパズル』
ファミリーレストランの会計の隣にある『おもちゃの販売コーナー』
そこにある『大判みかんがむ』
みんな出会う度に「溶けてるなあ」と思う
「そういうものだ」ということは誰もが知っているけれど
「そういうものだ」以外のことは誰も知らない
日常に溶け出し、人々の心に染み込んだ
何も問われることのないものたち
そういう「溶けているもの」がなんか好きで、つい探してしまう
溶けているものは「はじまり」を感じさせない
発祥が存在するのは確かだが、ずっと昔から居たように、しれっとそこに居る
何やら正体の掴めないままに、日常の深いところに居る
なんとなく、それそのものが独立した意思を持っているかのような雰囲気を感じる
解き放たれている、と思う。何から解き放たれているのかと訊かれてしまうと
うまく答えられないのだが
つくられたもの、というのは溶けて初めて、そこに命が、魂が、(場合によっては神性が、)
宿るような気がする
ただそこらへんに在るだけなんだけど、「ただそこらへんに在るだけ」に至ったことに
ただならぬ魅力を感じる
情報社会なので、「溶けているもの」の正体は調べればだいたい出てくる
中には資料や研究者が存在せず、本当に溶けきってしまったものもあるが
多くのものは、普段誰もそんなことを気にしていないだけなので、調べると起源が判明する
疑問が解決するのは喜ばしいことだ
ただ、そこには敢えて「調べない」という選択肢もある
溶かしたままにしておきたい、という気持ちがある
謎を謎のままにしておきたい、という気持ちがある
調べても調べても尚正体がわからないものに出会ったとき、「わからないんだ」となんだかほっとする
「はじまり」が辿れそうなものを見つけても、そのままそっとしておきたくなる
疑問が浮かべばもやもやする
誰かに答えを尋ねたくなる
隣の友達に、職場の同僚に、学校の先生に、研究所の専門家に、世界中の人々に
それでもわからなければ、最後は自分自身に
熱心に問い続ければ、きっと答えに近づけるだろう
知的好奇心を満たすことは人類の本能だ
でもそんな本能など何処吹く風で「解決に向かいたくない」という感覚も、あるのだ
解決できないから諦めるのではなく、最初から解決と反対方向に歩いてみたくなることがある
もやもやと友達でいたいと思う一日がある
煮え切らないものと仲良くするのはそんなに悪いことではないと思う
もやもやはもやもやで結構良いやつなのだ
「何のために」と怒られながら、買ったきり、封を切らずに、大事にしまっておきたいものが、ある
手品師は「種も仕掛けもありません」と言う
ほんとその通りだと思う
手品を見るのが楽しいのは、気持ちよく騙されることができるからだ
「種も仕掛けもない」と心から信じることができたとき、手品の魅力は最高になる
溶けているものの正体を調べるのは、手品の種明かしなのだ
調べれば、全てが明らかになる。一切の疑問は解決する
代わりに何かがそこから去っていき、もう二度と出会うことはない
「知らないことを知る」が尊いのと同じくらいに
「知らないことを知らないままにしておく」も、尊いよなあと思う
小さな「?」に出会ったときに立ち止まり
辞書を閉じ、携帯電話を伏せ、パソコンを眠らせる
「教えてあげる」という親切な人に「ありがとう。でもまた今度ね」と応える
そうすればまたいつか、再び巡り会うことができる
「7」がある
「7」だということしか知らない
それで良いのだと思う
それが良いのだと思う
その「?」が満たされないことに
いつまでも、満たされている
「7」だということしか知らない
私は滅多にゲームセンターに行かない
温泉宿やデパートにある寂れたゲームコーナーの雰囲気は好きで
そういう場所を訪れたときにはそこで遊ぶこともあるけれど
年に数えるほどしか筐体遊戯に興じる機会はない
そんな素人である私でも、「7」のことは知っている
世界で一番有名な7なんじゃないかと思う
「7」のシルエットを見るだけで
すぐにスロットマシンを連想することができる
「あ、あの『7』だ」と答えられる
「7」というイメージが、しっかりと記憶に刻まれている
しかし、スロットマシン以外の場所で、「7」を見かけた記憶が全くないことにも気付く
"Slot Machine 7"とでも呼ぶべき、独特な書体であると思う
そこでしか見ることができない、それでいて大変著名なデザインだ
遊戯場を強く想起させる、象徴的な存在だ
だから「7」のことはよく知っている
そして「7」が「7」であること以外は、何も知らない
本当はなんという名前の書体なのか
そもそも書体が存在するのか。果たして「7」以外の文字があるのか
いつからこの形が成立しているのか
どこの国の誰という人がデザインして、どの会社が使い始めたのか
「〜」という曲線の妙と、重厚でありながら軽快なウェイト、誰もが一度は目にするその赤い色
7が今の「7」になるまでに、そこにはどんな物語があったのだろうか
姿形には慣れ親しんでいるのに、姿形以外のことは何ひとつわからない
そんな「7」がある
溶けているなあ、と思う
「溶けている」というのは私の造語で
「人々に深く浸透していながら発祥が未詳な(または無視されている)状態」のことを指す
「溶けている」ものは色々ある
国内だけでも、文学なら竹取物語、音楽なら通りゃんせ、建築なら鳥居
そういうのはみんな溶けている
伝統的なものに限った話ではなく、インターネット・ミームにも溶けているものは多い
ありふれたものほど、記憶の片隅に染み付いている
道の駅で売られている、『龍をあしらった剣のキーホルダー』
旅館の机の上に置かれた木製の『The-Tパズル』
ファミリーレストランの会計の隣にある『おもちゃの販売コーナー』
そこにある『大判みかんがむ』
みんな出会う度に「溶けてるなあ」と思う
「そういうものだ」ということは誰もが知っているけれど
「そういうものだ」以外のことは誰も知らない
日常に溶け出し、人々の心に染み込んだ
何も問われることのないものたち
そういう「溶けているもの」がなんか好きで、つい探してしまう
溶けているものは「はじまり」を感じさせない
発祥が存在するのは確かだが、ずっと昔から居たように、しれっとそこに居る
何やら正体の掴めないままに、日常の深いところに居る
なんとなく、それそのものが独立した意思を持っているかのような雰囲気を感じる
解き放たれている、と思う。何から解き放たれているのかと訊かれてしまうと
うまく答えられないのだが
つくられたもの、というのは溶けて初めて、そこに命が、魂が、(場合によっては神性が、)
宿るような気がする
ただそこらへんに在るだけなんだけど、「ただそこらへんに在るだけ」に至ったことに
ただならぬ魅力を感じる
情報社会なので、「溶けているもの」の正体は調べればだいたい出てくる
中には資料や研究者が存在せず、本当に溶けきってしまったものもあるが
多くのものは、普段誰もそんなことを気にしていないだけなので、調べると起源が判明する
疑問が解決するのは喜ばしいことだ
ただ、そこには敢えて「調べない」という選択肢もある
溶かしたままにしておきたい、という気持ちがある
謎を謎のままにしておきたい、という気持ちがある
調べても調べても尚正体がわからないものに出会ったとき、「わからないんだ」となんだかほっとする
「はじまり」が辿れそうなものを見つけても、そのままそっとしておきたくなる
疑問が浮かべばもやもやする
誰かに答えを尋ねたくなる
隣の友達に、職場の同僚に、学校の先生に、研究所の専門家に、世界中の人々に
それでもわからなければ、最後は自分自身に
熱心に問い続ければ、きっと答えに近づけるだろう
知的好奇心を満たすことは人類の本能だ
でもそんな本能など何処吹く風で「解決に向かいたくない」という感覚も、あるのだ
解決できないから諦めるのではなく、最初から解決と反対方向に歩いてみたくなることがある
もやもやと友達でいたいと思う一日がある
煮え切らないものと仲良くするのはそんなに悪いことではないと思う
もやもやはもやもやで結構良いやつなのだ
「何のために」と怒られながら、買ったきり、封を切らずに、大事にしまっておきたいものが、ある
手品師は「種も仕掛けもありません」と言う
ほんとその通りだと思う
手品を見るのが楽しいのは、気持ちよく騙されることができるからだ
「種も仕掛けもない」と心から信じることができたとき、手品の魅力は最高になる
溶けているものの正体を調べるのは、手品の種明かしなのだ
調べれば、全てが明らかになる。一切の疑問は解決する
代わりに何かがそこから去っていき、もう二度と出会うことはない
「知らないことを知る」が尊いのと同じくらいに
「知らないことを知らないままにしておく」も、尊いよなあと思う
小さな「?」に出会ったときに立ち止まり
辞書を閉じ、携帯電話を伏せ、パソコンを眠らせる
「教えてあげる」という親切な人に「ありがとう。でもまた今度ね」と応える
そうすればまたいつか、再び巡り会うことができる
「7」がある
「7」だということしか知らない
それで良いのだと思う
それが良いのだと思う
その「?」が満たされないことに
いつまでも、満たされている