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8月, 2017の投稿を表示しています

7 ? 7

「7」がある
「7」だということしか知らない





私は滅多にゲームセンターに行かない
温泉宿やデパートにある寂れたゲームコーナーの雰囲気は好きで
そういう場所を訪れたときにはそこで遊ぶこともあるけれど
年に数えるほどしか筐体遊戯に興じる機会はない
そんな素人である私でも、「7」のことは知っている
世界で一番有名な7なんじゃないかと思う


「7」のシルエットを見るだけで
すぐにスロットマシンを連想することができる
「あ、あの『7』だ」と答えられる
「7」というイメージが、しっかりと記憶に刻まれている


しかし、スロットマシン以外の場所で、「7」を見かけた記憶が全くないことにも気付く
"Slot Machine 7"とでも呼ぶべき、独特な書体であると思う
そこでしか見ることができない、それでいて大変著名なデザインだ
遊戯場を強く想起させる、象徴的な存在だ


だから「7」のことはよく知っている
そして「7」が「7」であること以外は、何も知らない


本当はなんという名前の書体なのか
そもそも書体が存在するのか。果たして「7」以外の文字があるのか
いつからこの形が成立しているのか
どこの国の誰という人がデザインして、どの会社が使い始めたのか
「〜」という曲線の妙と、重厚でありながら軽快なウェイト、誰もが一度は目にするその赤い色
7が今の「7」になるまでに、そこにはどんな物語があったのだろうか


姿形には慣れ親しんでいるのに、姿形以外のことは何ひとつわからない
そんな「7」がある


溶けているなあ、と思う





「溶けている」というのは私の造語で
「人々に深く浸透していながら発祥が未詳な(または無視されている)状態」のことを指す


「溶けている」ものは色々ある
国内だけでも、文学なら竹取物語、音楽なら通りゃんせ、建築なら鳥居
そういうのはみんな溶けている
伝統的なものに限った話ではなく、インターネット・ミームにも溶けているものは多い


ありふれたものほど、記憶の片隅に染み付いている
道の駅で売られている、『龍をあしらった剣のキーホルダー』
旅館の机の上に置かれた木製の『The-Tパズル』
ファミリーレストランの会計の隣にある『おもちゃの販売コーナー』
そこにある『大判みかんがむ』
みんな出会う度に「溶けてるなあ」と思う


「そういうものだ」ということは誰もが知っているけれど
「そういうものだ」以外のことは誰も知らない
日常に溶け出し、人々の心に染み込んだ
何も問われることのないものたち


そういう「溶けているもの」がなんか好きで、つい探してしまう


溶けているものは「はじまり」を感じさせない
発祥が存在するのは確かだが、ずっと昔から居たように、しれっとそこに居る
何やら正体の掴めないままに、日常の深いところに居る


なんとなく、それそのものが独立した意思を持っているかのような雰囲気を感じる
解き放たれている、と思う。何から解き放たれているのかと訊かれてしまうと
うまく答えられないのだが


つくられたもの、というのは溶けて初めて、そこに命が、魂が、(場合によっては神性が、)
宿るような気がする
ただそこらへんに在るだけなんだけど、「ただそこらへんに在るだけ」に至ったことに
ただならぬ魅力を感じる





情報社会なので、「溶けているもの」の正体は調べればだいたい出てくる
中には資料や研究者が存在せず、本当に溶けきってしまったものもあるが
多くのものは、普段誰もそんなことを気にしていないだけなので、調べると起源が判明する


疑問が解決するのは喜ばしいことだ
ただ、そこには敢えて「調べない」という選択肢もある


溶かしたままにしておきたい、という気持ちがある
謎を謎のままにしておきたい、という気持ちがある
調べても調べても尚正体がわからないものに出会ったとき、「わからないんだ」となんだかほっとする
「はじまり」が辿れそうなものを見つけても、そのままそっとしておきたくなる


疑問が浮かべばもやもやする
誰かに答えを尋ねたくなる
隣の友達に、職場の同僚に、学校の先生に、研究所の専門家に、世界中の人々に
それでもわからなければ、最後は自分自身に
熱心に問い続ければ、きっと答えに近づけるだろう
知的好奇心を満たすことは人類の本能だ


でもそんな本能など何処吹く風で「解決に向かいたくない」という感覚も、あるのだ
解決できないから諦めるのではなく、最初から解決と反対方向に歩いてみたくなることがある
もやもやと友達でいたいと思う一日がある
煮え切らないものと仲良くするのはそんなに悪いことではないと思う
もやもやはもやもやで結構良いやつなのだ


「何のために」と怒られながら、買ったきり、封を切らずに、大事にしまっておきたいものが、ある





手品師は「種も仕掛けもありません」と言う
ほんとその通りだと思う
手品を見るのが楽しいのは、気持ちよく騙されることができるからだ
「種も仕掛けもない」と心から信じることができたとき、手品の魅力は最高になる


溶けているものの正体を調べるのは、手品の種明かしなのだ
調べれば、全てが明らかになる。一切の疑問は解決する
代わりに何かがそこから去っていき、もう二度と出会うことはない





「知らないことを知る」が尊いのと同じくらいに
「知らないことを知らないままにしておく」も、尊いよなあと思う


小さな「?」に出会ったときに立ち止まり
辞書を閉じ、携帯電話を伏せ、パソコンを眠らせる
「教えてあげる」という親切な人に「ありがとう。でもまた今度ね」と応える
そうすればまたいつか、再び巡り会うことができる





「7」がある
「7」だということしか知らない


それで良いのだと思う


それが良いのだと思う





その「?」が満たされないことに
いつまでも、満たされている

まんじゅうこわい

「いらない物リスト」というリストをつくった


いらない物リスト





ECサイトのAmazonには「ほしい物リスト」というサービスがある
サイト上で販売されている商品からほしい物をリストアップし、それを公開しておくと
第三者がそこから商品を購入し、リストの作成者に贈ることができるという仕組みだ
例えば友達や恋人が「ほしい物リスト」を公開していれば
そこから商品を選んで購入し、プレゼントとして贈る、といったことができる
素敵なサービスだと思う





公開されている誰かの「ほしい物リスト」を眺めるのはおもしろい
「ほしい物リスト」には作成者の価値観がありのままに出る
まるで人生を映し出す鏡のように、ひとつのリストにひとつの世界観が宿る
雄弁なリストもあれば、寡黙なリストもある
作成者の想いを乗せて、刻一刻とその姿を変えていく


「ほしい物リスト」は、一種の物語なのだと思う
私はその物語性に「ほしい物リスト」の真価を見る





語られないもうひとつの物語がある
それが「いらない物リスト」だ


真剣に「いらない物」だけを集めたリストが必要だと思う
「まんじゅうこわい」にならないように、細心の注意を払って


「いらない物リスト」のふりをして、そこに「ほしい物」を並べるのは簡単だ
しかしそれは、とても空虚だ


偽りによって欲望を叶えたとしても、大いなる器が満たされることはない
ちっぽけな私の「ほしい」を満足させることに、たいした価値はないと思う
そんなことよりもずっと得難いものが向こうで待っている
それを殺してしまわないように、決してそこに嘘を混ぜてはいけない


一片たりとも「ほしい」という気持ちの混ざっていないリストをつくってこそ意味がある
純粋な「いらない」という想いの集合は、果たしてどんな姿をしているだろうか
その姿を、ほんとうに大切にしなければならないような気がする


そういう物語の在り方を、形にしておきたいと思う





市場と呼ばれるシステムは全て「ほしい」の力学に基づいて設計されている
そこは溢れんばかりの「ほしい」からなる大河であり
全ての商品はほしがってもらうために存在している
だから大抵のものは、「ないよりはあった方がいい」へと落ち着く
「世の中にいらないものなんてない」
そんな言葉へと流れ着く


そういう場所で「ほんとうにいらない物」を探すのはとても難しい
「いらない物リスト」をつくってみると痛感する
世界の仕組みは圧倒的に「ほしい」に有利になっている


「どちらかといえばいらない物」ならばいくらでもある
しかし、いざ「いらない物リスト」に加えようとすると迷いが生まれてしまう
なんだかんだいらなくもないような気持ちが混ざってくる


真の「いらない」とは、相手との関係を心から拒絶することなのだ
大変な決断を下すことが求められる
「今までも、そしてこれからも、紛うことなくいらない」
そのハードルを越えられる物は滅多にない


だからそこには「ほしい物」が決して持つことのない輝きが生まれる
「ほんとうにいらない物」が愛おしくなる
「ほんとうにいらない物」との出会いに憧れるようになる


自分にとってはいらないが、世の中に存在している物がある
きっと誰かがそれを必要としているのだろう
もしかしたら誰にも必要とされていないのかもしれない
少なくとも今、それは確かにそこに存在している


有り難いなあと思う
ほんとうにいらない物たちだ





「いらない物」が必要だと思う
いらないからこそ、いる


「世界でいちばんおいしい料理」と「世界でいちばんまずい料理」
どちらかひとつしか食べられないとしたら
私はまずい方を選ぶだろう
そこに選択の余地はない
その感覚を、ほんとうに大切にしなければならないような気がする


「ほしい物リスト」はいらない
「いらない物リスト」はほしい
やっぱり世界観が出ますね





「いらない物リスト」は、選りすぐりのいらない物を私に贈ることができます
ほんとうにいらない物なので、ほんとうにいらない

おかえりー

夜寝る前の挨拶といえば「おやすみ」で
朝起きたときの挨拶といえば「おはよう」が定番ですが


夜寝る前に「いってきます」
朝起きたときに「ただいま」
を使うのが好きです


しっくりくる挨拶だと思う
眠りの世界へ出かけるのだ


朝目を覚ましてとりあえず
「ただいまー」と言ってみると

「帰ってきたなー」

という感じがする





長い夢から目覚めて間もないときなんかは
しばしば「こんなだったかな」と思うことがある


一瞬変なところに迷い込んだ気がする


旅行から帰ってきて、玄関の扉を開けた瞬間
自分の家の匂いに気付くときの気持ちに似ている


懐かしいんだか新しいんだか
ふわふわと曖昧な状態がしばらく続いて
「あ、日常に戻ってきたのか」という自覚が
後から段々と追いついてくる





日常が「戻ってくる場所」というのも妙な話だ


宇宙のほとんどは空っぽで
物体が存在している空間の方が特殊であるように
宇宙のほとんどは非日常で
日常が存在している空間の方が特殊だという感覚がある


変なところで暮らしてるよなあと思う





ひとはいつか目を覚まさなくなる


朝目を覚ましてとりあえず
「ただいまー」と言ってみると

「いずれ此処にも帰ってこなくなるんだけどなー」

という感じがする


「暮らしてる」がそもそも変だよなあと思う





宇宙のほとんどは死で
生が存在している空間の方が特殊だという感覚がある


「いってきます」と「ただいま」は逆なのかもしれない

サイレント・マジョリティ

ある屋内の施設に入った
「寒い」と思った
「あー強すぎる冷房だ。夏だなあ」と思った


その瞬間「夏は寒く、冬は暑い」という季節感があることに気付いた
それこそが、本当の現代の季節感の姿なのかもしれないということに





ライフスタイル次第なのだが
オフィス勤務などの屋内を主とした生活を送っているなら
一日のうち夏は冷涼、冬は温暖な場所に居る時間の方が長い


そして本当に季節を象徴するような温度の外気に曝される時間は短い
最近の外気温は強烈なので、健康の観点からも益々その傾向は強くなっていることだろう
いまどきの人たちは夏は冷やされた空間に、冬は暖められた空間に居る


そういう生活の下では「夏は暑く、冬は寒い」は一般論に過ぎなくなる
実態が伴っていない
実際の生活時間を占める割合、現実の体感を優先するならば
相対的に「夏は寒く、冬は暑い」の方が正しくなる


より具体的な例を挙げるなら
冷房を目一杯効かせた部屋で毛布にくるまる感覚や
暖房を目一杯効かせた部屋でアイスを食べる感覚
その季節感は間違いなく「夏は寒く、冬は暑い」が支配している


もちろんその「夏は寒く、冬は暑い」は前提として「夏は暑く、冬は寒い」ありきだ
しかし、現代都市文明の季節感は

「『夏は暑く、冬は寒い』ゆえに『夏は寒く、冬は暑い』」

にシフトしてきていると思う
主体は後者になってきている





乖離していく感覚がある
イメージから現実が遠ざかっていく感覚が


やがて「夏は暑く、冬は寒い」という本来の姿を実感するためには
夏は意図的に暑い場所へ、冬は意図的に寒い場所へ
自ら赴き、身を置く必要が出てくるだろう


「夏は暑く、冬は寒い」を取り戻すために
「夏は寒く、冬は暑い」を回避しなければならなくなる


世界が転倒していく





なんて静かな革命なんだろう、と思う
その静けさに感動する


「夏は寒く、冬は暑い」が
何も言わずにそこに居るのが素晴らしい


過去を尊重しつつ、ちゃっかりと侵攻を進めていく
真摯で強かな革命が起きている


静かすぎて、革命でもなんでもないかのように





「夏は暑く、冬は寒い」

それは声高に主張する
人々の強固なイメージを支え続ける
これからも決して覆ることは無いだろう
真っ直ぐな、表向きの季節感だ


「夏は寒く、冬は暑い」

それは声を上げたりしない
意志があるんだかないんだかわからない
いつの間にか人々の隣に居て
巨大な群れを成し、蠢いている





ほんとうの多数派はいつも静かだ
ただ黙って淡々と、その勢力を伸ばしている

水が落ちる

「雄大なもの」というのは、なんでか人を感動させる
そういうものを探すのは楽しい


遠くへ出かけなくても、身近に雄大なものはいろいろある
例えば夕焼けや星空なんかは人々に敬われ、しばしば鑑賞の対象にされている


そんな中、雨は舐められてるなあ、と思った


水資源の豊かな国なので、雨など珍しくもないのはわかる
現代社会では中々「実り」と「雨」の直結がなく、雨の「恵み感」が薄くなっているのもわかる
そんなことより物や人が濡れるので、単純に迷惑というのもわかる


しかし、視界全体に水が降り注ぐのは、考えてみると驚異だと思う
雨は、とても雄大レベルが高い


見た目だけでもけっこうな話なのだが
音響もたいへん複雑だし、匂いも複雑だ
ゆっくり落ち着いて味わうことができれば
雨にはその他の自然の風景に決して引けを取らない感動がある





どうも過小評価されている気がする
滝にも劣る存在と思われている節がある
「滝のような雨」という表現に雨の舐められっぷりが端的にあらわれている
「通常より強い雨」をあらわす言葉なのに、むしろ弱いものと同列にされている


ほんとは雄大レベルが逆なのだ
例え小雨でも、滝と比べれば雨の方がずっと雄大だ
雨は広範に、長時間降り注ぐために、体感上の強度が薄められているだけだ


たぶん音量とか、打たれたときの衝撃の強さとか、限定的な情報に基づく類推だけで
「この雨は……滝みたいな感じだな。『滝のような雨』!」ということにされてしまったのだろう
滝は局所的な力がとても強いだけで総合力では完全に雨が勝っていると思う


豪雨にならないと雨は滝と比較してもらえない
宇宙から、滝の姿は小さすぎて見えないが、雨雲の姿ははっきり見える
それくらい両者は桁が違うというのに





普段の雨を見ながら滝を上回る迫力を感じている人がどれだけ居るだろう


私も、このことに気付くまでは完全に舐めていたので、雨は滝より迫力ないと思っていた
近くに滝があるなら「滝見に行くか」とはなるけど
「夕焼けでも見るかな」の感覚で「雨でも見るかな」とはならなかった
申し訳ないことをした


雨、迫力ないと思ってしまうとない
それは完全に見る側の問題なのだ


今なら雨の見方がわかる
ぱらぱらと弱く降っている雨でも
その降っている土地の規模、降り続けている時間、トータルの水量
目、鼻、耳、五感すべてに入ってくる情報
そういうものにきちんと相対すると、こりゃやべえなと思う
雨は雄大なのだ。思っているよりは。ずっと





滝にも雨にも、異なる良さがある
こちらが味わい方を切り替える必要がある
きちんと相手に合わせれば、どちらも正しく大自然の営みしており、感動的だ
雨の雄大さを見直すことで、感覚をチューニングすることの大切さを学んだのであった


「滝を見に行ったら雨に降られた」となるのが最高なのかもしれない
いや危ないなそれは





さて、それでは他にも何かないのだろうか
こうなると気付いていないだけで、身近にまだ雄大なものがありそうな気がする
雨を見落としていたように、こちらの感覚を相手に合わせていないために見落としているものが


そこで考えた
滝は局所的に強いという性質により、規模の大きな雨と感覚的に比肩するのだった
それならば滝よりもっと規模が小さくても、局所的な力がものすごく強い現象があれば
小さな空間に雨や滝に匹敵する雄大レベルが発生するのではないだろうか
そういうものを体験すれば、雨や滝と同じように感動を得ることができるのでは?


果たして滝よりコンパクトで滝より迫力のある現象なんてあるのだろうか……





しばらく考えて、それが存在することに気付いた
というより、人々が無意識にそういうものの存在を感じてとっていたことに気付いた
日本語の中に、それを捉えた言葉を見つけた


「バケツをひっくり返したような雨」だ


すごい表現だと思う
これを最初に感覚したひとは並一通りの感性ではない
それでいて即座に人々に受け入れられる感性でもある


「バケツをひっくり返すと大自然の営みに匹敵する」


無茶苦茶なようで、誰も疑問に思っていない
驚くほど違和感なく皆この言葉に納得している
仮説としては完璧だ





理論は実践を伴わなければならない
倉庫からバケツを持ってきて、水をいっぱいに溜める
規模を、時間を、感覚を、訪れるものに合わせよう
五感を総動員し、全力で鑑賞する必要がある


バケツをひっくり返す


水が落ちる


瞬きほどの時間の中に凝縮された、雨や滝に匹敵する雄大さ


感動が、そこに生まれているはずだ

うん

Googleの検索ボックスに「うんともすんとも」と入力すると、予測の一覧に
「うんともすんとも すん」が出て来る
たくさんの人が同じことを疑問に思って調べたのがわかる


「『うんともすんとも』の『すん』ってなんだよ」


これは既に数多の議論がなされてきた、枯れた話題だと思う
なのでこの疑問の答えがなんなのかという話をする気は特にないのですが


「『すん』がよくわからんと言うのなら、『うん』の方も同じくらいよくわからんのでは?」


という話は記しておいた方がよい気がする





あまりにも一般的な既存の言葉、「承諾の『うん』」が存在してしまったがために
「すん」の方ばかり疑問視される、という現象がそこに発生しているように見える


しかし例えば「うんともすんとも言わない」は、反応のないもの全般に使える言葉だ
機械だろうが岩だろうが、そもそも承諾の意志など持ち合わせていないものたちにも
普通に適用されている


この「うん」は本当に「承諾の『うん』」なのだろうか
擬人化が起きていて、機械が「うん」と言ってる感覚なのか……?
うーん……
……うん?
「うーん」の「うん」なのか?いや、「うん?」の「うん」か?


いろいろ考えられますが、とりあえず
「うんともすんとも」の「うん」が果たしてあの馴染み深き「承諾の『うん』」
日頃使っている「うん」と同一であるかどうか
これがとても怪しいことだけはわかる
よしんば同一であるとしても、ぜんぜん自明な話ではない


「うん」の方もなかなかよくわからん代物なのではないだろうか


ただ「普段からすごくよく使っている文字列だから」というだけの理由で「うん」の方は素通りされ

「うんともすんとも……『すん』……?」

と、「すん」の方ばかりが人々を引っかけ続けている
「うん」も「すん」もよくわからん度は大差ないのに、人々は「すん」の方に集まっていく
Googleの検索予測に「うんともすんとも うん」は出てこない





「『すん』って何?」という話の中身よりも
その背後で暗躍している存在のことがどうにも気にかかる
人々に「うん」を素通りさせ、「すん」へと導いていく、そんな力を湛えた、隠れた存在のことが


「うん」とか「すん」とかの議論を始める以前の段階で、両者の間に無意識に強い偏りが発生している
「『うん』の方はまあ別に追求しなくてもいいよね感」が勝手に人々に共有されている
誰が望んだわけでもなく、そういう現象が自然発生しているのだ。それがおもしろい


確かに何かがそこに居るのを感じる
「うんともすんとも」の後ろに隠れている、強い力を持った何かが
きっと他の言葉にも同じように隠れているのだろう
そしてこの文章にも


みんな自由に考えていながら、思考の分布は均一にならない
無限の表現力がありながら、言葉には強い指向性があらわれる
束縛するものはどこにもないのに、心は弄ばれている


辿り着いたのではなく、ただ運ばれただけなのだという気がしてくる
思い思いに泳いできたつもりが、みんな「すん」という島へ流れ着いていく





結論とは、人がそれを導くものではなく、人がそこへ導かれるものなのではないだろうか
人の意志が言葉を操っているというよりは、言葉が人の意志を操っている
その方がしっくりくるものがある


私が言葉を書いているのではなく、言葉が私に書かせている
この文章は、そういう結論へと導かれている


隠れた存在の力で

虫眼鏡

少し前にパソコンのディスプレイを解像度が高いやつに換えた
そのときはデスクトップの表示が以前に比べすごく広くなって驚いたんだけど
今やすっかり慣れてしまい慣れというのは不思議なもんである


そしてふと、最近のパソコンの容量の大きさ、その本来の能力からすれば
今表示されているデスクトップの広さなんて全体のごく一部
氷山の一角なのではないだろうか、と思った
もしかすると砂漠の角砂糖くらいでしかないのかもしれない


そう思うと急に広いデスクトップの姿も虫眼鏡を覗いているかのように見えてくる
ディスプレイの枠の外側に広大なピクセルの海が広がっていて
その中のとてもとても小さな水面(みなも)しか見えていないような気がしてくる


これは拡大図なのだ
果たして本体はどれくらい大きいのだろうか


テニスコートよりは広いだろうな
テニスコートの地面が全部デスクトップ画面になっている様子を想像する
その大きさを、できるだけ本当に目の前に存在しているように、ありありと思い描いてみる
そのくらいの大きさなら到達していそうだ


それでは東京ドームと比べてどうだろう
この街と比べてどうか。日本列島となら?


まあまだデスクトップくらいのレベルなら、そこまでのスケールには届いてないかなと思う
計算はしてないので勘ですが





それからインターネットブラウザを開く
そう、そうなのだ。これも同様に、虫眼鏡なのだ
そして、デスクトップよりはるかにやばいやつである


この虫眼鏡は、もっとずっと大きなものと繋がっている
広い海に浮かぶ、小さな1ページだけを拡大して、それを見ることができる
しかし、水面に近づけた顔を上げる方法はない


もしブラウザの枠を外して、インターネット全体の姿を一望することができたなら
その風景は、現実の浜辺で海を眺めたときと同じくらい雄大で
感動的なんじゃないかという気がしている


あるいは地平線まで続く広大な大地の景観、あるいは満月の夜、満天の星空の
そういったものたちとも渡り合えるかもしれない
事によっては、もう既にそういったものたちに勝っているかもしれない


人類は割とたいへんなものを創ってしまった。全体の想像はまるでつかない
直感的にはそういうスケール感があるのだが
実際に画面に映して見られるのはひとつのwebページだけだ


とてつもなく壮大な景色が画面の向こうに存在している
それは確実なのだが、その景色を見た人はまだいない
それを映し出すことのできる道具が、世界にはない
いつまでも虫眼鏡を使っている場合ではないと思うが
残念ながらこれしかない





今日も今日とて、一本の虫眼鏡を手に地面に近づき、足下を征く蟻たちをじっと観察し続けている
その足下がグランド・キャニオンの大地であるとは気づかぬままに


決して、顔を上げることなく

めっちゃうごく

幼い子供を眺めているとまず立ち止まるということをしない
活発に運動していて、めっちゃうごいてるなあと思う
子供に限らず、私はめっちゃうごいてる人を眺めるのがなんか好きである
(自分でめっちゃうごきたいとはあんまり思わないのだが)


しかしやはり、どこでもめっちゃうごいてるのはだいたい子供であって、大人は静かなものである
大人の運動は、程よく力が制御されているかんじがある
何か特別な行事でもない限り大人が本気でめっちゃうごいてる様子は見られない
ちょっと残念に思う


「大人しくする」という言葉があるが、字面がもう大人を想定してますよね
「静かにする」というのは本来訓練を要する特殊技術なのだ
子供がめっちゃうごくのは、生きものの理にかなってる


生きものにとっては、動くより止まる方がずっと難しい
完全に止まることに挑戦してみると、静止状態を保つのがいかに難しいかがよくわかる
踊りの世界でも止まるのがいちばん難しいみたいな話を聞いたことがある


もし周りから見て完全に止まることができたら、生きものの枠から外れてしまうんじゃないだろうか
普段止まって見える生きものも、実際は必ずゆっくりうごいている
瞑想のひとたちは本気で止まって静かにしてるから
生きものの枠を外れ、宇宙とひとつになれるのかねえ
激しく運動する瞑想というのは、ちょっときいたことがない


宇宙的には人間が静止してようが運動してようが誤差だと思うんだけどな
めっちゃうごきながら宇宙と一体化する技術ってないのだろうか


赤ん坊はめっちゃうごいてるけど、宇宙と一体化できてる気がする
学ぶべきところがある

らめられよ

「一度ならず二度までも」


という言葉が急に浮かんで
定型句だけど、実際の日常生活で使ったことはないなあと思った
口にしてみたいけど、使う機会がこれといってない


句を分解すると割と親しみのある要素で構成されているのだが
この配置にすると日常から隔絶の感ある響きになりなんか不思議
普通に使ってる人もいるのかしら


「一度ならず二度までも!?」


一回くらいはそう言っておおきな声で驚いてみたいですね
一回やれば満足すると思う


「今生諦められよ」


は声に出してみると気持ちよくてすごくお気に入りなんですが、輪をかけて使う機会がない
分解しても馴染みのない要素ばかりなので仕方ないのかもしれない
命令形で「られよ」を使う機会がまずもってない
意味も問題ですね。「覚悟!」とか「天誅!」とかもいまどき使わんしなあ
しかし「今生諦められよ」は語感が素晴らしいので、これはなんとかして使いたい


何がそんなに良いんだろうな
音楽的な何かを感じてはいるのだが
「こんじょう」でゆっくりと立ち上がり
「あき」のアタック感から
「らめられよ」と畳み掛けてくる感じか
「らめられよ」のダイナミズムだな。舌が躍動している。らめられよ
とにかく、このまま歴史に埋もれさせるにはあまりに惜しい逸材なのだ
うーむ……


……あ、害虫を退治するときとかに使えばいいのか
虫は極力殺さないようにつとめているんですが、殺さざるを得ない相手も居る
「拙者は無益な殺生は好かぬ。されど相手が救い難き悪とあらば致し方あるまい」
みたいな状況なわけだし、世界観としてもぴたりとあてはまるんじゃないだろうか


「今生諦められよ……!(殺虫剤を撒く)」


なかなか悪くないのではないでしょうか。良い閃きなので今度試します
日常行動としてはすこし攻めすぎの感があるが
一回やれば満足すると思う


然るべきタイミングで音として発せられてこそ輝く言葉、ありますね
日常生活で無理なく使っていける限界は「まことに ?」くらいまででしょうか
私は「マジ?」系よりも響きがやわらかくて好きなので
使えそうなときは「まことに?」を使うのですが
まだ多少ギリギリ感が残っていてひやりとします
「ほんと?」はちょっと優秀すぎるな。長所であり短所でもある
当たり障りがないし、当たり障りがない


「しまった!」はまだ大丈夫だけど、「不覚!」はちょっともう駄目な気がする
「南無三!」は今どっちだろうなあ。一見ぜんぜん駄目そうだが、案外いけてしまいそうだ
今は駄目でも、何かの拍子に息を吹き返す言葉というのもある
口にしてこそ楽しいんだけど、なかなか扱いが難しい言葉たち


そういう言葉が、まだまだ眠っていると思う

七味唐辛子

砂漠に一本だけ木が生えているのを見たら、じっくりとその木を観察したくなるが
山のようにある一粒一粒の砂の方はなかなか観察しないと思う
逆に森に居て木がいっぱい生えていたら、今度は一本一本の木を観察しようとはしなくなる


身の回りの品々を見ると、配慮に溢れているなと思う
ちょっとすごい量あるなと思う
ありがたいことなのだが、存在しすぎているので
普段からありがたさを見つけてやるぞと心構えていないと素通りしてしまう
当たり前のようにこちら側のどこからでも切れる袋がついてきてる
これはすごいことなのです。並大抵の話ではない


色々な商品のパッケージを観察すると、使いやすくするための工夫のひとつやふたつはある
コンビニ弁当の蓋のツメが上下でちょっとだけずれていたりとか
指を入れやすい隙間が残るようになってたりとか
「こうすると良いよな」という誰かの配慮がさりげなく存在しているのがわかる
そういうのを見つけると、あー行き届いてるな、と、もはやこれ以上何も望まぬきもちになる
まあ、全くなんの配慮も見つからない商品もあり、それはそれでストイックでかっこいい
そういうのもまれにある


もちろん、まだ足りぬ、私はそんな行き届き認めないぞ、と心構えてしまうとけっこうきりがなくて
更に「もっとこうすればいいのに」という余地もがんばって探せばある
開発のひとたちはそれを探してそうな気がする
その余地を新たな力にして配慮はどんどん成長していく


最近の配慮はたいへんなことになっていると思う
こちら側のどこからでも切れてしまうんですよ
こちら側のどこからでも切れなくても別に困らないのだが
もはやこちら側のどこからでも切れないと困るのだ


カップうどんには七味唐辛子の小袋が入っている
その事実に毎回感動している
完全に行き届いている
必要なものが、必要なだけ、存在している
そこに完成されたひとつの物語がある
なにひとつ足す必要はなく
なにひとつ引く必要もない
世界は完璧だ

街灯

夜道を歩いていると、ふと街灯に虫が全然集まっていないことに気付いた
調べるとどうやら知らないうちにLED式に取り替えられたらしく
発する紫外線が少ないため虫が寄りにくいそうだ
つまり虫というのは人の可視光はどうでもよくて、不可視光に集まっていたということで
同じ世界に居ても、全く別の世界を見ていたんやなあと、ひとつ学んだのであった
新しい街灯は見た目変わってないが、たぶん虫にとってはすごく暗くなった感じなのだろう


街灯の周りを虫たちが飛んでいる光景に
無機的なものと有機的なものの共存を感じて神秘的で好きだったのだが
虫がぜんぜん居なくなってしまったので、新しい街灯は私の感覚では街灯ではなくなってしまった
街灯らしくない街灯という、不思議な街灯である。そのうち慣れてしまうのでしょうけど
いずれは、街灯に集まる虫という風景も人々から忘れられていくのかもしれない。諸行無常だ
そうやって巡り巡って、結局街灯は人間にとっても見た目変わっているのだ


しみじみ症候群なのですぐにうーん存在してんなあとか繋がってんなあとかしみじみしてしまう
紫外線など肉眼で捉えられるはずもないんだけど
虫たちの存在を介して紫外線の多寡を感じることができる
全く別の世界を見ていても、同じ世界に居るんやなあと、ひとつ学んだのであった
人間もじぶんたちの存在を介して虫になんかを伝えているのかもしれぬ
よくできてる