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9月, 2017の投稿を表示しています

構造色

玉虫のことが気になった
玉虫色、どうやって発色してるんだと思って調べてみたら
しゃぼん玉と同じらしい。なんと。そんなところと繋がっていたとは。知らなかった


これからは玉虫を見る度にしゃぼん玉を思い浮かべることになる(逆も然り)
全く繋がっていなかったものが繋がると嬉しくなる


玉虫としゃぼん玉が繋がって喜んでいると
急にそこから発色の原理の説明まで求めてはいけないような気がしてきて
それ以上は調べるのを止めた


「かくかくしかじかというわけで、玉虫としゃぼん玉は同じ色なんだよ」と
全てをきちんと語れるよりも
「玉虫としゃぼん玉は同じ色なんだよ」と、それだけしか語ることのできない人でありたい


理由を説明できない知識を持っていれば、理由を説明しなくて済む
そこにはほんとうに大切なことが、ほんとうに必要なぶんだけ残る


二手に分かれた道があり、真ん中に立札が立っている
片方は「知っている」、もう片方は「知らない」。ふたつの矢印が、それぞれの道を指している
知っている者にしか行けない場所があり、知らない者にしか行けない場所があるのだと思う
私は知らない者にしか行けない場所へ行きたい


理屈の無い理屈が好きなんだろうな
理屈の在る理屈の方は、放っておいても大丈夫そうだしなあ





世界を語るふたつの方法がある
片方は「なぜ」を必要とし、もう片方は「なぜ」を必要としない


玉虫としゃぼん玉は、同じ色なのだ

流れないそうめん

「回らない寿司」という表現に、出会う度に心惹かれる
食べものとしての寿司が好きとか嫌いとかではなく
言葉としての「回らない寿司」に不思議な魅力がある、というお話





「回転寿司」は「寿司」と区別するために「回転」と付けられた
当初は「回転寿司」のみが回転する特別な寿司だったのであり
「寿司」という表現だけで「回らない寿司」を意味していた
「回らない」という修飾は不要であった


時代は下り、回転寿司の隆盛によって寿司は回ることが一般的となった
「寿司」は「回る寿司」と「回らない寿司」を包括する語となり
「回る寿司」に対して「回らない寿司」と
「回らない」を記す必要が生まれた


短い期間に寿司の勢力図は変化し、その変化はまだ終わりを告げていない
現在、「回らない」は不要であるようにも感じるし、必要であるようにも感じる
だから「回らない寿司」と聞くときには、相反する2つの心情が同時に呼びさまされる


また、「回らない寿司」には「(回る)手頃な寿司」と「(回らない)高級な寿司」という対比の意もあった
ところが今では高級回転寿司が登場している。いよいよ寿司界は騒然としていることだろう
「回らない寿司」の正体が、謎に包まれていく





渾沌がある
渾沌は解明を拒む
ゆえに、不思議な魅力が生まれる


人々は「回らない寿司」と言う
人々は「流れないそうめん」とは言わない


そうめんは、秩序の世界に居るのだ
寿司は、渾沌の世界に居るのだ

澄み渡る

喉が渇いているとき、「喉が渇いている」と言うけれど
喉そのものはそんなに渇いてないと思う


「喉が渇いている」は、正確には身体が渇いている状態だ
水分の入口は喉だけれど、本当に渇いている場所は喉ではない


「お腹が空いた」というのも、空いている場所はお腹ではない
空腹は全身のエネルギーが欠乏している状態で、お腹以外の場所にもいろいろな症状が出る





言葉は、言葉通りではないのです


私はアホなのでそのことがよくわかっておらず
お腹が空くのはお腹が空いたときだけだと思っていた
おかげで「お腹以外の場所からくる欠乏感覚」も空腹と呼ぶのだと気付くまでに随分かかった
「身体がだるい」や「眠れない」といった状態も「お腹が空いた」と呼んで良いのだと学んでから
ようやく「お腹が空いた」の正しい感覚を認識できるようになった
「なるほどなー」と思い、そして「お腹が空いたって全然お腹の話じゃないんだなあ」と思った


自身の感覚についてそこまで鈍いのは私がアホゆえなのだが
多少なり言葉には人の感覚を限定したり、混乱させる力があると思う


「喉が渇く」という言葉が存在するおかげで、水分不足を感じたときに
無意識に神経を喉の周辺に集中させてしまうようになる
「本当に渇いている場所」を見失わせる
その力は、呪いに似ていると思う


知っている言葉が増えるほどに、実体からは遠ざかる
「肩が凝る」という言葉を知らない方が
肩が凝るときの身体の違和感の姿を正確に感覚できると思う
肩が凝るとき、本当に凝る場所は肩ではないからだ
その姿形が、毎回少しずつ異なっていることもわかる


「心が寒い」なんて言うときも、実際寒いのは心ではないのかもしれない
誰かに手を握ってもらうだけで心の寒さは解決したりする
やっていることは「手が寒い」と全然変わらないのだが
「心」という抽象的な言葉が、単純な問題を難しくしている


「痛い」という言葉が存在しなかったら「痛み」もまた存在しない、は流石に言い過ぎだけれど
「痛み」という感覚と「痛い」という言葉が過不足無く対応できているかというと
全然できてないと思う


今日の「喉が渇いた」と昨日の「喉が渇いた」は
似ているけれど、同じではない
雲のようにふわふわと、輪郭を持たない言葉たちが、それらを同じことにしている





言いたいことは、言ってしまうと遠ざかる


言いたいことを十全に言うためには
一切口を閉ざしておくか、あるいは無限に弁を弄するか
いずれかしかない気がする
発すれば、ずれる。ずれれば、離れる


翻訳せずに済む話は、翻訳しない方がいい
とにかく全部をそのまま感覚しようとしてみれば
いろいろなことがわかり
いろいろわからないということもわかる


身体から送られてくる膨大な情報を「喉が渇いた」にまとめたとき
うーん遠ざかったなあ、と思う
それが良いとか悪いとかは無い
ただ、遠ざかったなあ、と思う




言葉はお喋りなので
放っておくとどんどん遠ざかってしまう
遠ざかりすぎるのはちょっとまずい気がするので
そういうときは、少し耳を澄ませるように心がけたい


耳を澄ませて、たくさんの声を聞く
澄ます場所は、耳ではない

共生

街は生きものである
いや、比喩でなく


生命の定義について、という話はとても大変なので避けるが
誕生、死、繁殖、絶滅、遺伝子、代謝、それと意思
とりあえず街はその辺り全部備えていると思う
街は生きものである


たぶん関係を逆にしても成り立つ
集住、過疎、繁栄、衰退、都市計画、世代交代、それと意思
とりあえず生きものはその辺り全部備えていると思う
生きものは街である





人の体内に微生物が暮らすように、街の体内に人が暮らす
人が街を生かしており、街が人を生かしている
人の側に主導権はなく、街の側にも主導権はない
共生している


互いが互いを助ける、という基本理念がある
微生物の活動が人の生存に不可欠であり、人の活動が微生物の生存に不可欠であるように
人の活動が街の生存に不可欠であり、街の活動が人の生存に不可欠だ


街が失われそうになると、人々が興そうとするのは
宿主の死を防ごうとする本能のようなものだと思う


まあ、善玉悪玉という話もある
人それぞれいろいろ役割がある
宿主を生かしたい人たちも居て、殺したい人たちも居る
それはそれとしておく





興味深いのは、人に「街の死」を感覚する能力が備わっていることだと思う
大きすぎて(人の感覚からは)街全体の生命活動を把握することはできない
当然「街が生きものなわけあるか」という人は居るだろう
けれど、自分が住んでいる街の活気や衰退を感じることができない人は居ない
普段街の「生」を感じていなくとも、その「死」はわかるものだ
それがわからなければ、助けることもできない


「生物の体内に居る」という認識を持って街を散歩してみると
人々の賑わう所は代謝が活発だなあとか
複雑な都市を歩くたくさんの人々は神経伝達物質かなあとか思う
(人の感覚からは)巨大な意思の存在を感じてくる


部分から、見ることのできない全体のことを類推している
なんとなく、体内の微生物たちに共感する
人の中に暮らす生きものたち。総体が人の体、総体が人の心
街の中に暮らす生きものたち。総体が街の体、総体が街の心
よくできてると思う




小さな生きものと大きな生きものが共生する
小さな生きものは大きな生きものでもあり
大きな生きものは小さな生きものでもある


街という生きものも、更に大きな生きものの体内に暮らしてるんだろうなと思う
(人の感覚からは)広い空間と、長い時間がある
それぞれの街があり、それぞれの役割がある


街も自らの宿主の死を感じるのだろうか
街の宿主は何者なんだろう
今度訊いてみようと思う





そうなると、街の宿主にも宿主が居る、と考えるのが自然ですよね
宿主の宿主の宿主の……みたいな話になる
大きすぎるので、全然わからなくなっていく


全然わからなくなるっていうのが良いよな
地球は何番目かなあ

置いてけぼり

たまに電子機器の画面設定を弄って、グレースケールにして使うということをやる
色が抜け落ちることにより、新たな体験が生まれておもしろい
色がなくても支障がなかったり、意外なところで支障が出たりする


ほんとうは電子機器だけでなく、全視界から色情報を落としたい
不可能ではなさそうだけれど、ちょっと手軽に試すことはできない
(VRとかAR技術を使えば可能にはなっていると思う
光学的に色を無くせる眼鏡があればいちばんよいのだが)
とりあえずカラーセロハンを貼った眼鏡でもかけておけば良いのかもしれない


見慣れたものが様変わるのは楽しい
何だか転生を受けたような気持ちになる





何かできないかと思って、画面をグレースケールにした後
更に無音・字幕有の設定で色々な動画を見てみた
最新の映像でも古い映像のように見えるので不思議だ


映像の内容ではなく、質感が時代を司っているんだな、と思う
本当に古い映像のそれとは違うが、擬似的にそんな感じになる
コンテンツの外側に、時代性が宿っている


ブラウン管が古さを感じさせるようになった
液晶も古さを感じさせるようになっていくのだろう
現代のメディアがいずれ古くなるのは確かだが
未来のひとたちがどのような質感を古いなあと感じるのかはわからない
解像度とか色深度とか、そういうのとは少し違う所に映像の時代性が宿るような気もする


想像を巡らせるのは自由なので、今度は画面設定をカラーに戻し
未来のひとたちのつもりになって、古臭いなーという気持ちで4Kの映像に臨んだりした





その一方で、一周回って、古さが新しさになるということもある
最近カセットテープの音がかえって新鮮だということで、小さな再流行が起きているという話を聞いた
私はアナログ信号の砂嵐のようなビデオノイズには現代でも通用する格好良さがあると思っていて
時々見たくなる
映像でも音声でもデジタル編集でアナログテープ風の加工をする技術があるけど
そういうのは素敵な転倒だと思う
新しさは古くなり、古さは新しくなり、そうやって廻っていく





ある質感に対して過去を感じるか、未来を感じるか、ということを考えてみると
レトロゲーム機の電子音は、過去の音に聞こえると同時に、未来の音にも聞こえるように思う
「現代」という地点から遠くに居るなあ、という感覚だけがある
いつまでも手の届くことのない所に居るから、その音に惹かれる気がする


単に「今」を正しく感覚するのが難しいだけなのかもしれないが
いつでも古い質感を、いつでも新しい質感を、感じさせるようなものもあるわけです


古さと新しさが交互に循環しているのだとしても、時代性は年月とともに流れていくのが普通だ
そういう中で、輪の外に居るもの、流れから外れているものたちは尊い





過去で在り続けるもの
未来で在り続けるもの


時代の流れから外れたものたちは、格好良く「永遠」や「普遍」と呼ばれたりしますね
悪くはないんだけど、それだとちょっと世界観が垢抜けすぎていると思う
私は「取り残された」が素朴で好きです


「永遠」や「普遍」に対する憧れは特にないんだけど、「取り残された」にはとても憧れる
「置いてけぼり」の在り方が良い


ぼーっとしているとどんどん時代に流されてしまう
がんばって取り残されていかないとなあ

Fin

「エンドロール感覚」というものがある





田舎道の脇に
DyDoの自動販売機がある


二輪を停めて小銭を入れ
缶珈琲を買う


ガタン、と音がする


全く当たらないルーレットが回って
全く当たらないルーレットが外れる


ポイントカードがあったことに
いつも買ってから気付く


自動販売機が「ありがとうございました」と言う
誰にでもそう言うように、同じ音声で、「ありがとうございました」と、言う


その瞬間が、幕だと思う





瞬間、世界は私と自動販売機だけになる
物語が閉じていくのがわかる


全てがこの瞬間のために用意されていたのだ、というような気がしてくる
ありもしない風呂敷が畳まれていく感覚がある


笑いたくなると同時に、泣きたくなる
ああ、ここで世界が終わるんだな、と思う


缶珈琲を飲み、ため息をつけば
いよいよ終わりにふさわしくなる


ごみ箱に空き缶を投げる


画面が暗転する


エンドロールが流れ始める





……というような感覚が「エンドロール感覚」です


普段の生活の中で、なんとなく「この瞬間がクライマックスだ」と直観するポイントがあって
「あ、今エンドロール入ったな」と感じることがあるという、それだけのお話


まあそんなことを感じたところで世界は全然終わらないので
その後も淡々と日常は続くわけですが
ふと訪れる「エンドロール感覚」を感じるのが、なんか好きなのでした