「へべれけ」:ひどく酒に酔って正体を失うさま。ぐでんぐでん
。(
三省堂 大辞林 Weblio辞書)
本日は、「へべれけ」という神話の話でもしようかと思います
「へべれけ」って言葉、素晴らしいですよね
。「酔っ払い」という状態をこれ程的確に表現する音列は中々考えられないと思う
。へべれけですよへべれけ。言い得て妙と言わずして何と言おう
へべれけ、一体いかなる語源かと調べてみると、意外にも日本語由来ではないとの説が見つかる
(その説に出会うまで、私は日本語由来の擬態語だと思っていた)
。あくまで一説ではあるのだが、それはギリシャ語のヘーベー・エリュエケ(Hebe erryeke)の短縮
、意味は「Hebe (青春の女神の名)のerryeke (お酌)」である
「へべれけ」=「女神さまのお酌」
、まことかと問いたくなるが、まことしやかではある
。しからばまことに相違ない。擬態語説凍結やむなし
。女神さまの注がれる神酒(ネクタール)が神々に永遠の命を与える
。それが「へべれけ」という世界観なのだ
。美しい女神さまにそんなことをして頂いては、へべれけにならぬ方が失礼というものだろう
そういうわけで、私は「へべれけの伝承者」になったのである
言い方に誤解がありそうなのでもう少し説明しようと思う
。「へべれけの伝承者」とは、他者にへべれけ状態に成ることを推奨する者ではない
。また、自ら積極的に酔っ払って、へべれけ状態に成りに行く者でもない
。「へべれけの伝承者」とは、「へべれけという神話を人々に語り継ぐ者」のことだ
。それは「お酌とは何かを識り、行ずる者」でもある
「お酌」という文化がある
。そういう文化はビジネスやらマナーやらジェンダーやら時世が絡んでくると
、とてもめんどうな話題になる
。私は基本的にそういうめんどうな話題はめんどうなのであまり関心がないのだが
、そこにヘーベー・エリュエケのような世界観が在る場合は話が別である
へべれけの世界観を通すと、「お酌」という文化の真価が見えてくる
。それが現代的な価値観に基づく議論の対象から外れているものだとわかる
。お酒を注ぐ一連の行為の中には、神話の世界が宿っている
へべれけの世界観において、「お酌」とは人々の臨むべき儀式なのである
。俗世の肩書きはいまひととき忘れなさい。宴席は「へべれけ」という神話の舞台なのだから
。主役は人間ではない。女神さまである
。壇上に居合わせた人々は各々の役割を演じ上げなければならない
。逸話を可能な限り再現することが目的とあらば、やはり美しい女性がお酌を務めるのが望ましいだろう
。人扮する女神さまがお酒を注ぎ、それを受けて人々扮する神々が酔っ払う
。空間がそこに永遠の命を認めたとき、無事に「お酌」の儀式は終わる
。だからもとよりそれは会社の飲み会とか、そういう尺度に存していない
。「お酌」それ即ち神話「へべれけ」伝承のための催事なのだ
別に女神役が美しい女性のみに限定される必要はないとは思う
。しかし例えば美しくない男性を女神さまの役どころに据えるのは
、他の演者たちに儀式の熟達を要求する
。男性のお酌というのは、バイトの巫女さんのようなものだ
。バイトの巫女さんが本物の神託を授かれるかどうかは、コミュニティ一同の腕次第である
。場を支配する女神役の人選は、伝承の質を左右すると心得なければならない
。主役を雑に決めてしまっては、へべれけの伝承は間違いなく失敗する
。試しに全てのことにくたびれたおじさんを抜擢し、お酌をして貰うとよい。未熟者は去らねばならぬ
。演者のひとりでも力不足であれば、たちどころに、酔っ払い不在の宴席と相成る
。へべれけ失敗だ。我々は女神さまを地上に降ろそうという話をしているのだ
。役者を軽んじてはならない
要するに「儀式に手を抜いてはいけない」ということである
。ひとたびそのことを承知すれば、手酌にも怠ることなかれ、ということがわかってくる
。一人酒にも神話「へべれけ」の伝承風景は在るのだ
。あなたがひとりでお酒を注ぐときでさえ、あなたはひとりではない
。あなたは、自身の手を通じて、そこに女神の存在を感じるだろう
もしもあなたが、「へべれけの伝承者」であるならば
語り継がれてこそ、伝承は伝承として生き続けることができる
。語り継がれなくなったとき、伝承は死を迎える
伝承は絶えて悲劇となる
。「唐揚げにレモンをかけるか否か」、かつてはそこにも、確かに神話があったのである
。しかし、その神話は今や失われた。唐揚げの伝承について、よく知る者はもう残っていない
女神さまは、レモンをかける派なのか、かけない派なのか
、確かに存在していたその道標は、もう誰にもわからなくなってしまった
。人々は進むべき方角に背を向け、自らの手で扉を閉ざした
。だから今、唐揚げにレモンをかけてよいのかどうか、かけるならどうやってかければよいのか
、肝心なことを知る者はひとりも居ない
。案の定人々は争いを続けている
。伝承を失うとはそういうことだ
。悲劇はそこにある
へべれけの伝承もまた、唐揚げの伝承と同じ運命を辿ろうとしている
。「お酌」と検索してみれば、どこもかしこも処世にまつわる話題で持ち切りである
。隣で女神さまが心配そうに見つめているが、人々は意に介さない
。それはそうだ。女神なんてものが存在するはずがない。そうだろう?
「マナー」、「タイミング」、「順番」、「受け方」、「嫌い」、……
。Googleの検索予測、「お酌」に続く言葉たちは、そのまま皆の心の鏡だ
。どうすればいいのかと問いかけながら、その手は扉を閉ざしてゆく
。肝心なことを知る者はひとりも居ない
。案の定人々は争いを続けている
。伝承を失うとはそういうことだ
。悲劇はそこにある
人世に説かれる「お酌」のあれこれにほとんど意義は無い
。「へべれけの伝承が人々から失われるとき、女神さまを現世に降ろす力もまた、永久に失われる」
我々は説く。ただそれだけが、「お酌」という文化が本当に抱えている、極めて深刻な問題なのだ、と
「女神さまはレモンをかける派か、かけない派か。答えを知っている者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
これを聞くと、彼らは年寄から始めてひとりひとりお酌をしに出て行き、ついに……まあ、この話はいいか
。私もそろそろお酌をしに出て行く頃合いだ
そういうわけで、私は「へべれけの伝承者」になったのである
我々は二度と、唐揚げの悲劇を繰り返してはならない
ゆめ忘れるな
お酌をせよ
女神を宿し、女神を顕せ
へべれけにより、へべれけにせよ
へべれけにより、へべれけになれ
もしもあなたが、「へべれけの伝承者」であるならば