スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2018の投稿を表示しています

やかん

この季節は石油ストーブに水の入ったやかんをかけて部屋の加湿をしている


夜眠る前にはストーブの火を消すのだが
このとき火はすぐに消える一方で、余熱によりやかんからはしばらくの間湯気が出続ける


やかんのお湯は遅れて次第に冷めてゆき、湯気はやがて静かに止まる
その火が消えてから湯気が止まるまでの時間が、ゆったりと長い


最近そういう現象に気づいて、毎晩ストーブの火を消すのが楽しみになりました
一部始終を眺めていると、世界は十全と感じます
しみじみとすばらしい


しかし、このすばらしさは言葉にしても仕方がないタイプのやつなので
言葉にすると仕方がなくなってしまうのでした
仕方ないなあ





やかんから昇る白い湯気が
少しずつ、少しずつ、低く、淡くなる
その様子を、私はただじっと見つめている





空間と時間が在る
思い残すことがない

フグのイニシエーション

人類が初めて出会うものに対して「とりあえず食べてみるか」と挑戦できる人はありがたい
ありがたいとは文字通り「有り難い」、「あることがむずかしい」という意味だ


食べても大丈夫かどうかよくわからんものを「えいっ」と食べてしまう
これはたいへんな挑戦であり、なかなかできることではない
ゆえにそれができる人はありがたいのだ


例えば「人類で初めてフグを食べた人」の体験などは、想像もつかない躍動があったことだろう
「初めてフグを食べた人」というのは、それはそれはありがたい存在だ


そういうわけで「初めてフグを食べた人」はありがたい
しかし、ほんとうにありがたいのは実は「初めてフグを食べた人」ではないのではなかろうか
ほんとうにありがたいのはむしろ「2番目にフグを食べた人」なのではなかろうか
本日は「2番目にフグを食べた人」の話をします





「初めてフグを食べた人」、道拓く挑戦者が挑むのは
「食べられるのか、食べられないのか」というわかりやすい未知への賭けだ
そこには勇気がある


当然賭けに敗れてしまった場合、その人は犠牲となってしまう
そしてひとつの命が犠牲になることで、人々は「フグには毒があるので食べられない」を学ぶ


「初めてフグを食べた人」は、フグに毒があることを知らなかった人であり
「フグは危ない」という知を後世に遺した人である


しかし「2番目にフグを食べた人」のやってることはぜんぜん違う
「2番目の人」は、出来事の顛末を既に学んでいるのだ(!)


「危ない」という先駆者が遺した知を充分に理解した上での「いや、それでも食べるぞ」という決断
これが極めてありがたい。それは既知への賭けなのである
「2番目の人」の挑戦は「初めての人」よりもはるかに挑戦的だ


「食べられないけど食べたいので食べます。危険と知ってはいるが、それでもかまわん」
そこには狂気がある


そういうわけで、「フグを食べる人」には「初めての人」と「2番目の人」がいる
それは「危ない」を知らなかった人と、知っていた人だ
両者はともに決断し、危険を冒す。しかし、その決断の意味合いは全く異なる


「2番目の人」の決断には「初めての人」からの大きな大きな飛躍がある
そして私は、その飛躍が好きなのです





命というものは原理的に飛躍を拒む
命の至上目的は自身を安定させ、継続させることにある
しかし飛躍はそこに対して、真逆となる自身の不安定と断絶を処方する行為なのだ


だから命は飛躍を断固回避するために、前もって知を集めようとする
人は自分が食べる段を最後の最後まで後回しにする


例えば人類は初めて出会うものに対して、予め成分分析をしたり、動物実験をしたり
色々と周り道をして、自分で食べる前にできるだけリスクを下げようとする
そうやって「どうやら食べても大丈夫らしいぞ」という知を積み重ねていく


現代は知のたいへん豊かな時代である
つまり、現代は命をとても大切にしている時代ということだ


しかし、そこにはいつか必ず越えることのできない限界が訪れる
いくら大量に積み重ねても、知は知にすぎないのである


いざ自分が食べる段になったら、もう自分が食べるしかないわけです
現代の知はたいへん豊かなので
既に「100%の安全保証というものはできない」という知が得られている
だからその上で「フグを食べる」という選択は、命にとって必ず命賭けのチャレンジになる





ゆえにこれはひとつの「儀式」であると、私は思う
人類の知は決してリスクを0にすることができない
ゆえに「フグを食べる」は、人類にとっていつまでも挑戦であり続ける


だから「フグを食べる」という境界を自覚的に飛び越えることができたとき
人は本質的にいにしえの「2番目の人」と同一の状態になる
こうして儀式を通過した人は「2番目の人々」への仲間入りを遂げるのだ


偉大な瞬間だ
これを「偉大」と形容しているのは、私の趣味です
だってひとつの命が飛躍を遂げる光景を「偉大」と言わずして他になんと言ったらよいのでしょう
死ぬかもしれないと知っていながら、なお死を賭してフグを食べる決断をした人の、その命の飛躍を


「ひょっとして『ただの馬鹿』なのでは?」という意見が聞こえてきそうだ
うーんごもっとも。まことに正しい。しかしそれは私の趣味ではありません


おっしゃる通り「知っていてなお危険を冒す人」というのは「愚者」の代名詞です
その意見は尤もだ。しかし私は、それだけではあまりにも言葉が足りないと感じます
私は「フグを食べる」という決断は
「知っていてなお危険を冒す愚者の物語」とはちょっと違うと思うのだ


「フグを食べる」
それは生と死とがともに手をとりあって初めてたどり着ける場所なのだ
だからその光景はとてもまばゆく、私のこころに清々しい感動を呼び覚ます
これは「命が全てにさよならする可能性を引き受ける物語」なのである





あなたがひとたび命賭けでフグを食べるとき
あなたもまた「2番目の人々」へと加わることになる
これはフグに限った話ではないのだけれど
手近でわかりやすいところでは、フグであると思う


とりあえずフグを食べてみればわかります
大丈夫。たぶん安全です。「絶対」ではありません。「たぶん」なのです


安全というものは限りなく100%に近づくことはあっても、100%になることは決してない


あなたがフグを食べるとき、もしほんのわずかでもためらいを覚えるならば
そこには儀式の扉が開かれている
あとはあなたが真っ直ぐにそれをくぐる決断をするかどうかなのだ


「たぶん大丈夫」に己の全存在を委ねること
明日はもうやって来ないかもしれないけれど、それでいいと諦めること
その魂を締め付けられるような、泣きながら笑うような
ひどく切ない、それでいてどこか晴れ晴れとした決断を、引き受けるのが儀式なわけです


人がフグを食べる
逡巡、飛躍、生還
「……」、「えいっ」、「うまいっ」


そのとき、確かに人は死をくぐるのだ
いやー、まさに「鉄砲」です。むかしの人の言選りはさすがだ


そしてもちろん儀式には生還できない結末もあり得る
なんて素晴らしい。そうでなくては意味がない
だからこれは、越えられる者だけが越えられる試練なのだ


「フグのイニシエーション」
あるいは単に「人生」





世界には無数の儀式がある


シリンダーをからからと回して止める。自分のこめかみに銃口を当て、引き金を引くとき
手術の同意書にサインをする。白い病室の静寂にかりかりとボールペンの音が響くとき
パラシュートとGoProを付けて飛び降りる。不規則に揺れるヘリコプターから最後に左足が離れるとき
2枚の手札にあり金を突っ込む。積み重ねた全てのチップをぐっと前に押し出すとき
そして、フグを食べるとき


飛行機に乗るとき
船に乗るとき
列車に乗るとき
自動車に乗るとき
自転車に乗るとき
走るとき
歩くとき


家を出るとき
食事をするとき
運動をするとき
働くとき
遊ぶとき
家に帰るとき


目を開くとき
目覚めるとき
目を閉じるとき
眠るとき


息を吸うとき
息を吐くとき


その行動を選択したことで、次の一瞬に命が終わる可能性は、常に0ではない
安全というものは限りなく100%に近づくことはあっても、100%になることは決してない
だから「フグのイニシエーション」は、いつどこにでもある


もしかすると人は「安全じゃないのなら私はフグを食べない」と考えるかもしれない
しかしその選択をしたところで、次の一瞬に無事でいられる保証もまた、どこにもない


「フグを食べる」も「フグを食べない」も、等しく100%安全にはなり得ない
「生還の確率が最も高い行動を選択すること」と「実際に生還すること」とは、全く違う
だから「フグを食べない」決断さえも、「フグのイニシエーション」のひとつなのである


こうして人間のすべての振る舞いは
最終的に「そこに決断が伴うか伴わないか」のたった2種類に分けられる
「儀式を儀式としてやり遂げるか、適当にごまかすか」、すなわち「遂げるか、逃げるか」
人間はただそれだけを自分で選ぶことができるのだ


「次の一瞬に自分が全てにさよならする可能性を引き受けるか、引き受けないか」
世界には、これしかない





実際に儀式を儀式として受け入れ、やり遂げることができる人はとても少ない
飛躍できるときに飛躍できた人だけが「2番目の人々」への仲間入りをする


そして儀式をやり遂げたとしても、そこに留まっていられる人はなおいっそう少ない
一瞬一瞬に飛躍し続ける人だけが「2番目の人々」であり続ける
これはほんとうに難しい。ありがたいと言わざるを得ない


「えいっ」なわけですよ
「えいっ」、非常に忘れがちです


まあ儀式をやり遂げなかったからといって大したことにはならないので
忘れがちにもなろうというものです
知が豊かな現代では「フグのイニシエーション」などという胡乱な儀式を
やり遂げなくても実に全く問題がない


やらなくても問題がないというよりも
むしろ仰々しくやり遂げようという人物の方が問題なのかもしれない
だってフグを食べるときはいちいち「えいっ」とか考えてないで
安心して食べる方が健全じゃあありませんか


料理店で「死ぬかもしれない……」とかなんとか言いながら恐る恐るフグを食べる人なんて
「ひょっとして『ただの馬鹿』なのでは?」と笑って済まされて然るべきなのだ


そのような態度で儀式から逃げることは、まことに正しい
リスクは命に毒だ。そんな健康に悪そうな話、人間は直視するべきではない
「いまどきフグで死ぬわけないでしょ」が現代人の正しい態度ってもんですよ


「今日生きてるんだから明日も生きてるでしょ」
これが人の、正しい態度なのです


まさに「知」と呼ばれるものの存在理由は
そのようにして「人々を『えいっ』から遠ざけること」にある
ゆえに儀式に関わる言葉たちは必然的に「挑戦者」、「賭けに敗れ」、「犠牲」といった言選りになる


命をできるだけ大切にし、「えいっ」から可能な限り遠ざかること
これが人類が長い歴史をかけて築き上げた健やかな生の態度なのだ


「フグのイニシエーション」だなんて、なんと大げさで馬鹿げた考え方でしょうか
騙されてはいけません。大丈夫なのです。安心して何も考えずにフグを食べましょう
あんなのはひどい極論です。極論に惑わされてはいけません。フグは安全なのです


いまどきフグ食べて死ぬわけがないではありませんか
今日を何事もなく生きているあなたが、明日唐突に死ぬわけがないではありませんか
今こんなにも簡単にできている呼吸が、この次で急に止まるはずがないではありませんか


リスクは限りなく0に近いんですよ。なのにそれを10にも100にも膨らませて考えるから
連中は「フグのイニシエーション」などとおかしなことを言い出すのです
リスクは限りなく0に近いのだから、そんなものは0とみなしてしまえばよいのです
だからあなたがフグを食べるのに御大層な決断なんて少しもいらないのです
そのフグに危険なんてこれっぽっちもないのですから!





「フグは安全ではない」と「フグは安全だ」
「呼吸は安全ではない」と「呼吸は安全だ」
おかしなことを言っているのは、果たしてどちらなのだろう
儀式は問いかけている


私は「儀式からの逃避」は人類にとってまっとうな判断であると思う
「えいっ」はやらない方が安全だ。「えいっ」は勧めない方が人にやさしい


もとより「えいっ」について、人は真正面から戦いを挑むべきではない
「えいっ」は、最後の最後にはこちらが負けると決まっている勝負なのだ
だから健やかに生きるために、人は「えいっ」からできるだけ遠くに逃げるべきなのだ
「えいっ」を避け、「大丈夫」を唱えて、日々を安全に暮らす
それが賢明というものだ


そんなことは私もわかっております
でも私は「えいっ」がなんか好きなんですよ
フグを食べるときは「大丈夫」よりも「えいっ」の方がなんとなくしっくりくる
フグを食べないときも「大丈夫」よりも「えいっ」の方がなんとなくしっくりくる
だからこれは完全に私の趣味の話です


私は眠るときも「えいっ」でやっていきたい人なのだ
何なら呼吸も「えいっ」でいけるなんじゃないかと思っている
まあ呼吸で「えいっ」をやるのはほんとうに難しくて、ありがたいことなんだけれども


つい呼吸をしてしまうわけですよ
私は知っているのだけれど、なおも危険を冒そうとしてしまうのだ


危ないなあ。そんなことを知っているから危ないんだよ
そんなどうでもいいこと忘れてしまえば、ずっと安全でいられるのに
そんなどうでもいいこと忘れてしまうのが、人類の智慧ってものなのに


なんだかしらんが私は忘れたくないのだろう


「次のひと呼吸で私が全てにさよならする可能性は、いつだって0ではない」





今日もどこかで誰かが「えいっ」に挑む
もしも生還できたら、仲間たちの声が聞こえるはずです


「これはこれは。『2番目の人々』へようこそ!」

「霜が降りる」と「霜降り」
前者は「り」で、後者は「り」
私はなんとなくそういうのに反応してしまいます


「霜がりる」
「霜がる」
「霜り」
ここまでは自然言語に用例が見つかる


したがって欠けた「霜り」の存在が理論的に予言されるわけだけれども
この「霜り」だけが未だ自然界では観測されていない
ふしぎ


構造に非対称性がある。私はそういうのなんか好きです
構造というものは、シンメトリーであってもアシンメトリーであっても美しいのだ


どうでもよいことなのだけれど、"asymmetry"という記号列を読むときは
「エイシンメトリー」と発音したくなるのに
カタカナで記述するとなると「アシンメトリー」と書きたくなってしまうなあ
書いてたら気づいた
私はそういうのもなんか好きです。いいかげんはともだちだ





ささやかな予言を自分のちからで立てることができると
学問というやつが少し浮かばれるような気がします
ことがらを「予め言う」というのは、ものすごくすごいことなのだ。叡智である


ときに叡智は壮大な予言を可能にする
例えば「1万2千年後にはおりひめ星が北極星になる」というように
ものすごくすごいことだ。学問は人類をそういうきらきらと輝く記述に到達させる
だから叡智はいつも堂々としていて、栄光に満ちている


ただ、そういうすごさに対面すると、どこか供養のような心地を抱いてしまうのが私なんですよね
栄光にはせつなさがある。学問は素敵にせつない





スーパーを歩いていたら、いつかふと「霜り肉」が観測されるのかもしれない
あるいは、いつまでも観測されないのかもしれない
人が予言を記述できることには慰めがある。私の感覚はやっぱり供養だと思う


いったいなにが「やっぱり」なのか
詳らかにしようという気もないままに
私はただ予言をします


「あなたはいつか霜り和牛に遭遇する」


当たっても外れてもなんにもならない予言は良いなあ

かき氷

「自分でかき氷を食べているとき」よりも
「誰かがかき氷を食べているのを見ているとき」の方が
より強く「かき氷感」を感じることがある


誰かが冷たそうな氷を口に入れるのを見たまさにそのとき
なぜか私の方に「かき氷感」が走る
口を中心として体から熱が奪われていくときの、ぞくりとしたあの感覚が駆け抜けていく
しかし実際に自分で食べてみると、確かに冷たいは冷たいのだが「かき氷感」の方はそうでもない


「現実の円」よりも「想像の円」の方がより「純粋な円」なかんじがするように
「自分のかき氷」よりも「他人のかき氷」の方がより「純粋なかき氷」なかんじがするんじゃなかろか


ならば「純粋な円」を決して紙に書くことができないように
私は「純粋なかき氷」を決して食べることはできないのだろう
ふふふ

陽炎

今日の昼は天気がよく、アスファルトに陽炎がゆらめいていた


あのアスファルトの陽炎って、どう見ても水面ですよね
水溜りの如く、風景をよく反射している
しかし「陽炎」は、そこに「炎」という字を当てている
そういう言選りはぐっときます


陽炎、古くは「かぎろひ」でやはり「火」のイメージだったようだ
万葉集の時代からそんな感じなので、そうとうに昔からその態度である
「水をあらわす火」、矛盾感がよい





よい言葉だなあと思ってその後も陽炎についていろいろ調べた
すると当初の想定と異なり
陽炎は「水面っぽい部分」の名称ではないらしいということが判明してしまった


「陽炎」は「アスファルト直上より更に上部の空気が歪んでゆらゆらしてる部分」だけを指すらしく
「アスファルト直上の水面のように風景を反射してる部分」は「逃げ水」と呼ぶのだそうだ
あー、そうなのか
あー


確かに上側の空気がゆらゆらしてる部分は「火」ですね。あれは火です
そして「水をあらわす部分」はやっぱり「水」でしたね。あれは水です
正しい言選り。まことに正しい
正しさというものは、いつも少し寂しい





「陽炎」を「水面のやつ」だと思っていたのは誤解だった
残念である。よい誤解だったと思う


「よい誤解」とは、誤解と知っても反省せずに誤解したままにしておきたくなる誤解のことである
誤解が解けたとき、上書きされた知識よりも、もとの誤解の方が良かったと思うことがある
例えば「いや、やっぱり『陽炎』を『水面のやつ』に使う方が素敵なのでは?」と思った場合
(それを誤りと重々承知しつつも)懲りずに「陽炎」を「水面のやつ」に使い続ける
そのような誤解が「よい誤解」である


「陽炎」は間違いなく「よい誤解」であったと思う。しかし、今回は珍しいことが起きた
「陽炎」を上書きした「逃げ水」が「陽炎」に匹敵しているのだ
水が「逃げる」というのもまた、ぐっとくる言選りだと思う
「近づけば遠ざかる」、矛盾感がよい


「逃げ水」という語は、散木奇歌集(平安後期)には既にあったらしい
これもそうとうに古い。「陽炎」と甲乙つけがたい
よい言葉がよい言葉に挑んでいる。ありがたいことだ
どちらの言葉をいかに使うべきか、たいへん悩ましい
昔の人たちは陽炎と逃げ水の区別しっかりしてたんだろうか
それとも曖昧に使ってたんだろうか





まあ、曖昧でよいんじゃなかろかと思う
現代の陽炎は曖昧感あるので、それでよし
見逃すべきところは見逃さねば
よいところも失われてしまう


そもそもアスファルト無いのだ。昔は

レジ袋の文様

今日、近所のスーパーで買い物をしてレジ袋を貰った
帰宅してそれを片付けていると、妙に指にひっかかる感触があることに気が付いた
袋をよく見てみると、ビニールの表面に細かい粒状の押出加工(エンボス加工)が施されていた
それが他の滑らかなビニール袋にはないざらりとした手触りを生み出していたのであった
更に調べてみたところ、どうやら手触り以外にも
他の袋とくっつきにくくなる効果があるらしいとわかった
なるほどなあ、と思った


うーん、エンボス加工、確かに在ります
一度気付いてしまうとなぜ今まで気付かなかったのかと思うくらい、ありありとそれはそこに在る
どちらかというと、それがそこに在りながら、これまで全く気付かずに過ごしてきたこと
その不覚に驚いた


例えば体に小さな傷があると気付いた途端
今まで何の痛みもなかったのに、急にそこに痛みを感じ始めることがある
それに気が付くまで、そんな傷はまるで存在していなかったかのように


そのようにして、認識が存在の契機となる
だから同様に、私が気付くまで、世界にレジ袋のエンボス加工は存在しなかった
もちろんそれは私の認識する世界にとっての話である
それとは一切関係なく、袋自体は以前からずっとその形で存在していた
エンボス加工はずっとそこにあった。しかしそれは、私にとっては存在していなかったのだ


たいへんなことだ
私は私の思い込みから、世界を勝手に創り上げている
そして私は実際の世界ではなく、想像の世界の方を優先して見るのである
現に私は私の思い込みだけで、今日までスーパーのレジ袋をずっと滑らかなものと認識していたのだ
(実際には何度もざらざらとした「それ」に触れて過ごしていたというのに!)


いやー、気を散らすというのはおそろしいことです
頭の中の世界に生きていると、外に在る世界のことがほんとうに見えなくなる
ビニール袋も並べて滑らかなどと勝手に先行して判断してしまう
事実に直に触れていながら、事実をまるで認識できなくなるのだ
「見もしない」のではない。「見ているのに見えていない」のだ。これはたいへんだ
習慣で見ている。予断で見ている。つまり、何も見ていない


ちゃんと生きてませんね
ちゃんと生きてないと、まあそういうことになります
あかんなあ。ちゃんと生きないとなあ
いやー、全然ざらざらしてますよ
全然ざらざらしてるぞこの袋は。どこが滑らかなんだ
私よ、目を覚ませ。しっかりしてくれ


そういうわけで反省した
反省してエンボス加工をちゃんと見たところ、袋の種類によってその意匠に違いがあることもわかった
大きい袋は一様に点が並んだ無機質な構造をしていたが
小袋の方は押出で綺麗な七宝文様が施されていた
なんでそんなデザインになっているのかはわからないけれど
とにかくそうなっていることは確認できた


「とにかくそうなっている」、これがちゃんと見えていることが、大切だと思う
予断というのは要するに理屈だ。それは「とにかくそうなっている」にとても弱い
しかし実際の世界は、常に「とにかくそうなっている」をこちらに展開してくる
在るものを在ると認められて、無いものを無いと認められる。それで十全なのです





レジ袋に、七宝文様は、在る
そこには、なんでもない空き地の土の中に、古代の器の欠片が見つかるような
あるいは、なんでもない砂利道の石の中に、月から来た隕石が見つかるような
そういう嬉しさを希釈した感じの嬉しさがあります


ただのレジ袋だ。その「ただの」が、まさに予断だ
世界をちゃんと見ることができていれば
なんでもないレジ袋に、七宝文様が見つかることもある
そういうのが見つかるのは、なかなか嬉しい


「見つかる」という言い方もちょっと違う気がする
文様は初めから、少しも隠れてなどいないのだから
私が勝手に見つからなくしている。私が見てないだけだ
そして私が見なければ、レジ袋はずっと滑らかなまま、終わる


もしも在るものを在るままに見ることができれば、ちゃんと在る。なんとすばらしい
ものが見えていればものは見えるし、ものが見えていないとものは見えない
七宝文様を眺めていると、よーし、だいぶものが見えているぞ、という気になる
ちゃんと生きてる感がある

カリカリに焼いたベーコン

先日の朝、私がカリカリに焼いたベーコンを食べたときのお話です


私はそのとき、カリカリに焼いたベーコンを食べていながら
カリカリに焼いたベーコンを食べていなかった
それによってまさに、初めて、私はカリカリに焼いたベーコンを食べることができた(ような気がした)


こんな風に書いてしまうから、わけがわからなくなるんだよな


「先日の朝、私はカリカリに焼いたベーコンを食べました」


事実の描写はこの1文で完璧なのに
実際、起きた出来事はそれだけです
言葉の使い方というのは、本来このくらいが丁度いい塩梅なのです
それなのに言語化できないことをわざわざ言語化しようとしたりするから
言葉が自身の限界を呈してしまう。わけのわからんことになる





「余計なものがなにもない」、そういう体験が在る


カリカリに焼いたベーコンを食べる前に「カリカリに焼いたベーコンを食べるぞ」とか考えたり
カリカリに焼いたベーコンを食べながら「カリカリに焼いたベーコンは美味しいなあ」とか考えたり
カリカリに焼いたベーコンを食べた後に「カリカリに焼いたベーコンを食べたなあ」とか考えたりする
それら全てがカリカリに焼いたベーコンから遠く遠く離れている
それら全てが、余計なものだ


カリカリに焼いたベーコンを食べるためには
カリカリに焼いたベーコンを食べてはいけない


カリカリに焼いたベーコンを食べるためには
カリカリに焼いたベーコンを食べてはいけない
と、考えてもいけない


カリカリに焼いたベーコンを食べずに、カリカリに焼いたベーコンを食べることができたとき
人はカリカリに焼いたベーコンを食べることができるのである
そういう体験は一生に何度もできるものではない
先日は、たまたまそれができた


まあ、それができたからといって、なんにもならない
そのなんにもならなさが、私はとても好きなのです





原理的に人間は「それ」を必ず取り逃がす
たまたま(本当にたまたま)「それ」を取り逃がさずに済んだとき
意識には過去形の「カリカリに焼いたベーコン」が残る
(もっとも、結局は取り逃がしている。だから「それ」は、いつだって過去形で現れる)


「未来」も「過去」も約束であって実在ではない
「現在」もまた、捉えられた瞬間に幻となる
「捉えた」と言ってしまったら取り逃がす仕組みになっているのだから上手い
よくできてるよなあと思う


残滓だけが言の葉になる
残り物には人生がある


「それ」を「真理」とか「悟り」とか呼んでしまうと
そういう話になってしまうのでめんどうですよね
だから私はどうしても言選りに慎重になります
人間はすぐ神秘主義する。よくないことだ
神秘は素晴らしい調味料だけれども、ベーコンには合わない


「神」、「仏」、「梵」、「道」、その他色々
こんなしょうもないことを説明するために招待したら
阿頼耶識もアストラル界も泣きますよ
言葉を変えたら言葉が変わってしまう
私はカリカリに焼いたベーコンを食べただけなのに


だから私は、「それ」を「カリカリに焼いたベーコン」と呼ぶのです
なかなか親しみやすくてよい呼称だと思います
誰がどう見ても、私はカリカリに焼いたベーコンを食べたのだし、そのときのそれが「それ」だ
わかることをわざわざわかんなくするから、わかんなくなるのだ





こうして、「それ」は「カリカリに焼いたベーコン」になり、なかなか親しみやすくなった
親しみやすくはなったけれど、「カリカリに焼いたベーコン」は、いやはや簡単な相手ではない
私は、私には「カリカリに焼いたベーコン」はもう2度とできないかもしれないと思っている
「カリカリに焼いたベーコン」は、自在の対極に居る
「カリカリに焼いたベーコン」は、望んで叶うものではない


ただ、「カリカリに焼いたベーコン」のほんとうによいところは別にある
「カリカリに焼いたベーコン」は、できなくても何も困らないのだ
「カリカリに焼いたベーコン」がもう2度とできないとして、果たして困ることがあるだろうか
いや、ない
ほんとにない


人はできないと困ると思っていることだけが、できないと困る
私は「カリカリに焼いたベーコン」から、そのことを教わった
そしてそれが、「カリカリに焼いたベーコン」のほんとうによいところだ


できないときは、できない
そのときは、そのとき


こんな風に書いてしまうから、わけがわからなくなるんだよな


言語化、それは駄目でもともと
わかることだけがわかるのだから


結局、言葉なんて「カリカリに焼いたベーコン」だけで充分なのです
ベーコンをカリカリに焼いて食べてみればわかるような話でもないけれど
ベーコンをカリカリに焼いて食べてみれば、わかる

月球

『地球はまるい』


重言ですよね。「球がまるい」などという話は
より適切な表現として「大地はまるい」と言うべきです
ただ、「それは私たちの世界観ではないよなあ」とも思う
なんというか、「大地はまるい」は、異国情緒がありすぎる
結局「地球はまるい」の方が、現代人に馴染む言葉なのだと思う


言選りこそ世界観なれ
人々がどのような言葉を使うかで、世界の全てが定まっている
皆が「大地は平らかだ」と言えば大地は平らかだし
皆が「大地はまるい」と言えば大地はまるい
この因果関係がとても重要なのです。決して逆ではない
「大地はまるい」と言われるまでは「大地は平らかだった」のであり
「大地はまるい」と言われて初めて「大地はまるくなった」のだ
つまり言葉は、地形をも創り変える程の大きな力を持っているのである


そして現在、「地」はどうやら「地球」になった
大地はまるいという世界観を現代人が概ね認めたからだ
しかし、「月」は「月球」になっていない
月のまるいことは現代人の能く認めるところだと思うんだけど
「月」は「月球」になり損ねたんじゃないかと
ここ数日、そのことが気になっている





言選りこそが世界観なのです
つまり、私たちは「月球」という世界観を拒絶しているわけです
「月球」は現代人にはどうにも馴染みがよろしくない
ということは、「月球」とは少なくとも今、この世界の言葉ではないのだ
だからその言葉は、どこか遠い異世界からやって来たように私たちに響く


だから言選りこそが世界観だと言うわけです
このことから私は、ある種の魔法の実在を認める結論にたどり着く
「私たちは言葉を唱えることで、世界そのものを書き換えることができる」のである
異世界からやって来た響きはそういう呪文の一種なのだ
積極的に使っていけば、異世界とこちら側を繋ぐことができる
というより、こちら側が異世界に「なる」


ある種の魔法に「詠唱」という手続きが必要なのはこのためだと思う
そのことは例えば、これからは「月」を「月球」と呼ぼうと決めてみればよくわかる
あなたの世界から「月」を手放すのだ
今すぐにでも、夜空を眺めて「月球が明るいなー」とか言ってみるのだ
(今宵はほぼほぼ新月でしかも私の居る地域は曇っていて月球など見えないわけだが
そんなことをいちいち気にしていては魔法など使えるわけがないので気にしてはいけない)
強引な実践が重要なのである。何でもいいからとにかく声に出してみるのだ
すると、たちまち世界の姿が書き換えられていく
あなたは最早現代人ではなくなる
ああ、そうだ。「あれは月球だ」
あなたは遠い場所、遠い時間の住人になる
魔法というやつは、そうやって使うものなのです


実際そういう魔法を長いこと積み重ねることで
人々はゆっくりと、大地をまるく書き換えてきたのである
だから理論上は大地を再び平らかな状態に戻すことも可能なのだ
もしあなたが一生「月」を「月球」と呼び続けたなら
あなたの周囲の人々は必ず強い魔法にかかるだろう


だから魔法使いが魔法を使うのではない。魔法を使う人が、魔法使いに「なる」のです
だから善い人が善い言葉を使うのではない。善い言葉を使う人が、善い人に「なる」のです
以下同様にして、人々がどのような言葉を使うかで、世界の全てが定まっている
この因果関係がとても重要なのです。決して逆ではない
私は、秘奥はたぶんその辺にあるんじゃないかと睨んでいる


さて、とかなんとか言ったものの実際に世界を書き換えるというのは極めて困難な話です
よって私は、ただ「世界を書き換えるという魔法」の使い方をここに記すに止めたいと思います
強い魔法は必ず術者に強い負担がかかります。無理はよくないよ無理は
異世界で故郷が恋しくなったら、「月球」を指さしながら元通り「あれは月だ」と唱えればよい
そうすれば簡単にこの魔法は解けます





私は地平線を眺めながら「どっちかっていうとむしろこっちが地球だよな」と言い
天に浮かぶ青い惑星を眺めながら「あれはむしろ海球だよな」と言う
月球の大地はとても空気が薄いので
私の言葉を、私だけが聞く

夢と希望

★★☆☆☆ 夢も希望もない人生
2018年4月5日
Amazonで購入

一時期巷で何かと話題になった(今もなっている?)「夢」と「希望」です
セットということでお得かなと思い、結構前に購入致しました
他と比較していないのでわかりませんが、品質は確かだと思います。大事に使えば一生保ちそうです
人生に夢と希望を求めている人にはおすすめです

ただ、私は使っていて「これは遠くから眺めるから素晴らしいのであって
所有すべきものではないな」と感じました
商品が届いて間もないうちはとても良かったのですが
だんだんと想像よりはるかに大きく成長していきます
(油断していると、巨大化して手がつけられなくなります。緑亀みたいです)

はっきり言って、邪魔です

長いこと我慢して使い続けましたが、先日、思い切って処分することに決めました
ひとりで持ち歩くのはとても無理という状態になっていたので
男友達の手を借りて何とか部屋の外へ運び出して貰いました
当日は業者の方々に迅速丁寧に対応して頂きましたが、処分の手続きはやはり諸々大変でした
特にトラックへの搬入では随分お世話になってしまい、私は現場であたふたと見ていることしかできず
「自業自得ですみません」と謝り倒しだったのですが
みなさん「仕事ですから」と笑っていらっしゃいました
現代の物流に携わる人たちはすごいですね。本当に頭が下がりました
とにかく、夢も希望も、捨てるときにはものすごく時間と手間とお金がかかります
皆様、ご注意下さい

さて、周りを見ていて夢も希望もない人生はちょっとまずいかなと思い
軽い気持ちで買ってしまった私ですが
結局私には「夢」の方も、「希望」の方も、どっちも合いませんでした
「流行に踊らされてしまった」と、深く反省しています
(もちろん本当に夢や希望を必要としている人も大勢いらっしゃると思います
そういった方々を非難する意図は全くございません
ただ、世の中には「私のような者も居る」ということです)

というわけで個人の感想です。とにかくほんっとに邪魔です!特に「夢」!
正月に親戚がうちに訪ねてきたのですが、でかでかと場所を取っている私の夢を見るや
「おや、○○には立派な夢があるんだねえ。素晴らしいことだ」とか
「若いってのは良いねえ。羨ましい限りだよ」とか
無責任なことをのたまうのです
私は(しめた!)と思って「それならお譲りしましょうか?」と即座に申し出ました
だって夢を持つのに年齢なんて関係ないでしょう。(私も実際大して若くはありません)
そしたら親戚は何やら急に言葉を曖昧に濁し始め、結局適当に誤魔化されて断られてしまいました
「お前らも本当は邪魔だと思ってんじゃねーか!」
と言ってやりたくなりました。(流石に言いませんでしたけどね)

夢って案外そんなものだったりします
夢なのに、夢のない話ですみません

私のケースでは、ずるずるとたっぷり3年を経てからの処分となってしまいました
その年月がまるで無駄とは言いませんが、多くの人に迷惑をかけてしまったし
勉強代は高く付いたと思っています
購入を検討されている方は、本当にそれが必要なのかどうか
今一度考え直してみることをおすすめします
一度買ってしまうと長い付き合いになります。そこはちゃんと覚悟する必要があると思います
私の周りでは10年以上夢と希望を持て余していて、捨てるに捨てられず悩んでいる友達も居ます

おかげさまで、うちは綺麗さっぱり片付きました
現在、我が家は非常に風通しが良くなりました
夢も希望もないその景色を存分に堪能しています
久々だと新鮮で清々しく、中々気持ちのいいものです

勿論3年も生活を共にしてきたので、以前より多少うら寂しい思いはあります
しかしそれは、仕方のないことだと考えています
あちらを立てれば何とやらで、人生、何でもかんでもは不可能です
ただ、元はと言えば無いものです。無ければ無いでそれほど困りはしません

あなたの人生に夢や希望は本当に必要でしょうか
夢も希望も捨てた人生というのも、捨てたものではありません

以上の理由で、私からは星2つの評価とさせていただきます
長々と失礼致しました

かつて夢と希望のあった場所で横になり、ノートパソコンを広げてこのレビューを書いています
近頃は春の陽気が訪れ、うちの日当たりってこんなに良かったのかと自分でも驚くばかりです
空っぽになった窓辺を見ていると、少し懐かしい気持ちになります

眠くなってきてしまいました
これから暑くなる季節です。日当たりが良すぎるのもちょっと困り者かもしれませんね
差し当たり、昼寝が捗っています

コメント|5人のお客様がこれが役に立ったと考えています. このレビューは参考になりましたか? はい いいえ 違反を報告

暖かくなり、桜が咲いて
「ああ、春だなあ」と
喜びを感じる

目が痒くなり、鼻水が出て
「ああ、春だなあ」と
喜びを感じる

へべれけの伝承

「へべれけ」:ひどく酒に酔って正体を失うさま。ぐでんぐでん
(三省堂 大辞林 Weblio辞書)


本日は、「へべれけ」という神話の話でもしようかと思います





「へべれけ」って言葉、素晴らしいですよね
「酔っ払い」という状態をこれ程的確に表現する音列は中々考えられないと思う
へべれけですよへべれけ。言い得て妙と言わずして何と言おう


へべれけ、一体いかなる語源かと調べてみると、意外にも日本語由来ではないとの説が見つかる
(その説に出会うまで、私は日本語由来の擬態語だと思っていた)
あくまで一説ではあるのだが、それはギリシャ語のヘーベー・エリュエケ(Hebe erryeke)の短縮
意味は「Hebe (青春の女神の名)のerryeke (お酌)」である


「へべれけ」=「女神さまのお酌」
まことかと問いたくなるが、まことしやかではある
しからばまことに相違ない。擬態語説凍結やむなし
女神さまの注がれる神酒(ネクタール)が神々に永遠の命を与える
それが「へべれけ」という世界観なのだ
美しい女神さまにそんなことをして頂いては、へべれけにならぬ方が失礼というものだろう


そういうわけで、私は「へべれけの伝承者」になったのである





言い方に誤解がありそうなのでもう少し説明しようと思う
「へべれけの伝承者」とは、他者にへべれけ状態に成ることを推奨する者ではない
また、自ら積極的に酔っ払って、へべれけ状態に成りに行く者でもない
「へべれけの伝承者」とは、「へべれけという神話を人々に語り継ぐ者」のことだ
それは「お酌とは何かを識り、行ずる者」でもある


「お酌」という文化がある
そういう文化はビジネスやらマナーやらジェンダーやら時世が絡んでくると
とてもめんどうな話題になる
私は基本的にそういうめんどうな話題はめんどうなのであまり関心がないのだが
そこにヘーベー・エリュエケのような世界観が在る場合は話が別である


へべれけの世界観を通すと、「お酌」という文化の真価が見えてくる
それが現代的な価値観に基づく議論の対象から外れているものだとわかる
お酒を注ぐ一連の行為の中には、神話の世界が宿っている


へべれけの世界観において、「お酌」とは人々の臨むべき儀式なのである
俗世の肩書きはいまひととき忘れなさい。宴席は「へべれけ」という神話の舞台なのだから
主役は人間ではない。女神さまである
壇上に居合わせた人々は各々の役割を演じ上げなければならない
逸話を可能な限り再現することが目的とあらば、やはり美しい女性がお酌を務めるのが望ましいだろう
人扮する女神さまがお酒を注ぎ、それを受けて人々扮する神々が酔っ払う
空間がそこに永遠の命を認めたとき、無事に「お酌」の儀式は終わる
だからもとよりそれは会社の飲み会とか、そういう尺度に存していない
「お酌」それ即ち神話「へべれけ」伝承のための催事なのだ


別に女神役が美しい女性のみに限定される必要はないとは思う
しかし例えば美しくない男性を女神さまの役どころに据えるのは
他の演者たちに儀式の熟達を要求する
男性のお酌というのは、バイトの巫女さんのようなものだ
バイトの巫女さんが本物の神託を授かれるかどうかは、コミュニティ一同の腕次第である
場を支配する女神役の人選は、伝承の質を左右すると心得なければならない
主役を雑に決めてしまっては、へべれけの伝承は間違いなく失敗する
試しに全てのことにくたびれたおじさんを抜擢し、お酌をして貰うとよい。未熟者は去らねばならぬ
演者のひとりでも力不足であれば、たちどころに、酔っ払い不在の宴席と相成る
へべれけ失敗だ。我々は女神さまを地上に降ろそうという話をしているのだ
役者を軽んじてはならない


要するに「儀式に手を抜いてはいけない」ということである
ひとたびそのことを承知すれば、手酌にも怠ることなかれ、ということがわかってくる
一人酒にも神話「へべれけ」の伝承風景は在るのだ
あなたがひとりでお酒を注ぐときでさえ、あなたはひとりではない
あなたは、自身の手を通じて、そこに女神の存在を感じるだろう


もしもあなたが、「へべれけの伝承者」であるならば





語り継がれてこそ、伝承は伝承として生き続けることができる
語り継がれなくなったとき、伝承は死を迎える


伝承は絶えて悲劇となる
「唐揚げにレモンをかけるか否か」、かつてはそこにも、確かに神話があったのである
しかし、その神話は今や失われた。唐揚げの伝承について、よく知る者はもう残っていない


女神さまは、レモンをかける派なのか、かけない派なのか
確かに存在していたその道標は、もう誰にもわからなくなってしまった
人々は進むべき方角に背を向け、自らの手で扉を閉ざした
だから今、唐揚げにレモンをかけてよいのかどうか、かけるならどうやってかければよいのか
肝心なことを知る者はひとりも居ない
案の定人々は争いを続けている
伝承を失うとはそういうことだ
悲劇はそこにある


へべれけの伝承もまた、唐揚げの伝承と同じ運命を辿ろうとしている
「お酌」と検索してみれば、どこもかしこも処世にまつわる話題で持ち切りである
隣で女神さまが心配そうに見つめているが、人々は意に介さない
それはそうだ。女神なんてものが存在するはずがない。そうだろう?
「マナー」、「タイミング」、「順番」、「受け方」、「嫌い」、……
Googleの検索予測、「お酌」に続く言葉たちは、そのまま皆の心の鏡だ
どうすればいいのかと問いかけながら、その手は扉を閉ざしてゆく
肝心なことを知る者はひとりも居ない
案の定人々は争いを続けている
伝承を失うとはそういうことだ
悲劇はそこにある


人世に説かれる「お酌」のあれこれにほとんど意義は無い
「へべれけの伝承が人々から失われるとき、女神さまを現世に降ろす力もまた、永久に失われる」
我々は説く。ただそれだけが、「お酌」という文化が本当に抱えている、極めて深刻な問題なのだ、と


「女神さまはレモンをかける派か、かけない派か。答えを知っている者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
これを聞くと、彼らは年寄から始めてひとりひとりお酌をしに出て行き、ついに……まあ、この話はいいか
私もそろそろお酌をしに出て行く頃合いだ





そういうわけで、私は「へべれけの伝承者」になったのである


我々は二度と、唐揚げの悲劇を繰り返してはならない


ゆめ忘れるな
お酌をせよ
女神を宿し、女神を顕せ
へべれけにより、へべれけにせよ
へべれけにより、へべれけになれ


もしもあなたが、「へべれけの伝承者」であるならば

三味一体

「甘い」とか「酸っぱい」とか「苦い」とか、味覚にはいろいろと形容の言葉がありますね
本日はそのことについて考えておりました


味覚を形容する言葉は「不味い」と「美味しい」を原理とする二元論で捉えられると思う
それが全ての源泉となる一対の陰と陽であると考えてみる
宇宙の全体が「不味い」と「美味しい」でできているならば
「甘い」や「酸っぱい」といった言葉は部分的な構成要素を司る
不味と美味の陰陽を宇宙の根本原理に据えたとき
甘酸塩苦旨の基本五味には、どこか木火土金水の五行的な雰囲気が漂う
味覚は、陰陽五行説の世界観になる


陰陽五行説というのはまあ気のせいかもしれないけれど
部分的な味覚の組み合わせが全体を構成し、調和することで
「不味い」や「美味しい」からなる宇宙を構成している
という考え方自体はそんなに間違ってないと思う


「部分」と「全体」
この宇宙観において、ひとつ気にかかることがある
それは五行のうち最も新しい「旨」なる味、「うま味」の存在だ
この「うま味」こそが、本日の主役である





近年、「うま味」は発見された
私には、何か直観的な違和感があった
新たな味覚の発見、それ自体は喜ばしいことだと思う
「うま味」を司る物質が存在し、その受容体が人の感覚器官に備わっているのも確かである
しかし「その味覚を『うま味』と名付けてしまったこと」
その点に名状しがたい引っかかりがあった


「旨」を除いて、「甘」「酸」「塩」「苦」の四味は、陰陽から独立している
「甘い」や「酸っぱい」という表現が、直接「不味い」や「美味しい」を意味することはない
それらはあくまで構成要素なのであって
それらが互いにバランスすることで「不味い」や「美味しい」が形作られる
部分と全体はしっかりと弁別が保たれていたのだ
だから「うま味」がまだ誰にも知られていなかった時代、そこには完璧なひとつの宇宙の姿があった


しかし「うま味」は明らかに他と趣を異にしている
自らをして「美味い」を名乗っているのだ
それは既存の言葉とは、あまりに一線を画している
それは部分と全体の同化を予感させる
それは宇宙の崩壊を暗示している


「うま味」という名をひっさげて
「うま味」はこれまでの世界観に真正面から挑戦を仕掛けているのだ
驚くべき言選りだと思う


「うま味」がどれほど驚くべき言選りであるかは
次のような例を考えてみればよくわかる


「料理に砂糖を加えると『甘い』になるが、更に大量の砂糖を加えると『甘すぎる』になる」
「料理に塩を加えると『塩辛い』になるが、更に大量の塩を加えると『塩辛すぎる』になる」
以上のような論理に疑問の余地はないだろう。「酸っぱい」にも「苦い」にも、同様のことが成り立つ
したがって私たちは、次のような帰結を得る


「料理に味の素を加えると『うまい』になるが、更に大量の味の素を加えると『うますぎる』になる」


そこに疑問の余地があってはならない
ゆえに私は戦慄を覚えている
「うま味」という言葉がいかに既存の世界観を超えているかがほんとうによくわかる
言霊は今、宇宙をその支配下においたのだ。部分は全体を凌駕しようとしている
全ては「うま味」というその名に起因して


果たしてうま味は「うま味」でよかったのだろうか、そう顧みざるを得ない
しかし他にどうすればよかったのかと考えてみると、それもまた難しい話ではある
私は「香味」とか「効味」とかにしておけば、まだ影響は抑えられたのではないかと思う
それらが最善であるとは決して言わないが、「うま味」はあまりにも危うい


「うま味」を名乗ってしまった以上うまくないはずがない
うまくないはずがなければならない





「料理に味の素を加えると『うまい』になるが、更に大量の味の素を加えると『うますぎる』になる」


私は理論を述べた。だがその実証は行っていない
その意味で私の「うま味」に対する危機感は空論に過ぎないが、それで良いと思っている
幸いにして、私はこれまで料理に味の素を入れすぎたことがない
偶々、真実を謎のままに保つことができていたのだ


真実を明らかにしてはならないと思う
例えば一人前の炒め物に味の素を1kgくらい入れてみたとして
果たしてそれはほんとうに「うますぎる」になるのだろうか
もしそうなるとしたら、いよいよおそろしい結末を迎えることになる
それは「うま味」と「美味」が同一であることを証明してしまうのだ
もしそうならないとしたら、いよいよおそろしい結末を迎えることになる
それは「うま味」と「不味」が同一であることを証明してしまうのだ


いずれにせよ同じ結末を迎えることになる
審判の時を経てしまったら、後は終末が訪れるのみである
そこでは「うまい」も「美味しい」も「不味い」も一体となるのだ
人々はもはや「味がある」としか言わなくなるだろう


だから「うま味」の真実を明らかにするのは禁忌なのだ
どんな形であれその結果を観測することは、宇宙の崩壊に繋がる
私にはそんなあぶない真似はできない





ああ、どうか憐れみたまえ


汝、味の素を入れすぎることなかれ

王妃のわがまま

マラソンの42.195kmという距離規定がとても好きです


と、それだけでは全く話が伝わらないので
本日は「王妃のわがまま」というお話をしようと思います





42.195km


何とまあ半端で不合理な距離だ
この何とまあ半端で不合理な距離のきまりごとには有名な逸話があって
「1908年ロンドン五輪、時の王妃が競技の様子を最も良い姿でご覧になれるようにと
半端な距離が設定されてしまった」という逸話だ
人の世界にはこういう逸話を伴って、一見すると滅茶苦茶なきまりごとがとてもたくさんある
私はそういう不合理なきまりごとに出会うのが好きなのです
そういうきまりごとを総称して「王妃のわがまま」と呼んでいる


42.195kmについては、逸話の真偽は定かではない
王妃が自らの意志で定められたことなのか、周囲の平民たちが王妃のことを気遣って勝手に定めたのか
そもそもそんな事実は一切無くて、後になってから創作された話なのか
真相はわからないが、わからなくて良いと思う
王妃のわがままはもともと不合理なので、そこでは真実なんてちっとも重要ではない
「王妃のわがまま」は鮮やかに、不合理なきまりごとをどこか崇高な場所へと昇華させてしまうのだ


「逸話が存在している」こと、それが大切だと思うわけです
「不合理なきまりごとがあり、その隣には王妃がおわす」
それはほんとうに尊いことです


今日では「計測時の誤りをできるだけ防ぐために、細かい数字を設定している」という
なんだか心許ない理由付けが行われるらしい
いかにもそれらしい理屈ではあるが、そんな逸話では絶対値を「42.195」に定めるにはとても足りない
並一通りの合理性では麗しき王妃の魅力には決して敵わない
正論だけでは、王妃のわがままとは戦えないのだ
42.195kmを42.195kmたらしめるには、かの素晴らしい逸話を語り伝えてゆくしかない
それが事実であるかどうかは一切関係なく、ただ王妃の御力に頼るしかないのだ





人の世界は人が動かしているので、ほんとうに不合理なきまりごとがいっぱいある
しかし、何か不合理な法が蔓延していて、それに不満を感じている人たちが居るとき
大抵の場合そこに欠けているのは合理性ではない
合理性など王妃にとってものの数ではないからだ
欠けているのは、平民たちの王妃に対する帰属意識だ


人の世界はほんとに王妃のわがままだらけなのです
42.195kmってなんだよ。どうかしている。狂気の沙汰だ
もう完全にこれは王妃のせいなのである


化学の世界では、原子の電子殻と呼ばれる構造はK殻から始まって
外側に向かってL殻、M殻……と続く
そのように法が定められているわけだが
アルファベット順ならA殻から始まるのが道理なのに、なぜかKから始まる
そこには


「法が定められた当時はもっと内側になんかあると思って、とりあえずKにした」


という逸話があるのだ
どうやら内側には何もなさそうだということが判明した時点でKをAに修正すればよかったのだが
一度王妃のわがままが通ると平民たちにはその法が染み付いてしまい
滅多なことでは後代の修正は効かなくなる
まったくもって王妃のわがままは王妃のわがままなのである
平民たちは「Kから始めるのじゃ」という王妃のわがままを聞き入れ
そうやって法を定めてしまったのだ
(あるいは平民たちが「Kから始めましょう」と王妃に進言して
王妃がそれを気に入られたのかもしれない
どちらにせよ、とにかくそれは完全に王妃のわがままなのである)


私は「電流はプラスからマイナスの方向に向かって流れる」という法を知ってから
実際の物質中では「マイナスの電子が電流と逆方向の運動をしている」という法を知ったとき
御尊顔も存じ上げぬ王妃に対する畏れを抱かずには居られなかった
それは何度聞いてもよくわからないきまりごとなのだ
なんという不合理かと、それはそれは驚いたものだった


しかしそこには必ず逸話がある。だから何一つ問題なんてないのです
そこには尊い王妃がいらっしゃるのだ。ただ安心してその御方を戴けば良い
かように奇天烈なきまりごとを成立させてしまう、王妃の御力のほんとうに畏れ多いことよ


もう具体的な例なんていくらでも出てくる
足し算は「+」で、足し算を繰り返したものが掛け算だ
掛け算は「×」で、掛け算を繰り返したものが冪乗だ
ここからが本番だ
冪乗は「↑」で、冪乗を繰り返したものがテトレーションだ
テトレーションは「↑↑」で、テトレーションを繰り返したものがペンテーションだ
ペンテーションは「↑↑↑」で、以降「↑↑↑↑」、「↑↑↑↑↑」、……と続いていく
なぜ足し算の段階から「↑」で始めることになっていないのだろうのか
最初からずっと、矢印の数をただひとつずつ増やしていけば良かったのに
それは最初に「+」という法を定められたのはどなたかということを、考えてみればすぐにわかる
そのとき、そこには、王妃がいらっしゃった





合理性こそ是とされる自然科学や数学の世界でさえそんな有様なのだ
いわんやなんやかんやをや。王妃はそれはもう我々の身近なところにしょっちゅうお出ましになる
というか王妃はお転婆であらせられるのかもしれない
王妃はしばしば居城を抜け出しているらしく
スターバックス・コーヒーでなんとかフラペチーノを飲んでいたりすることで知られている
その御方の逸話は枚挙にいとまがない。錚々たるものだ
私はそのうちのいくつかを知っている


王妃は1日は24時間ではないのに、1日を24時間と定められた
平民たちは慌ててうるう年を用意し、盛大にそれを祝った
なぜグリニッジ天文台が人の世界の時間の基準と定められているのか
もちろん王妃がそうおっしゃったためだ
平民たちは急いで世界地図に日付変更線を引いて、盛大にそれを祝った


王妃は信号機を3色にして、キーボードをQWERTY配列にして、時計を時計回りにした
水は100℃で沸騰するとした。10℃ではないし、1000℃でもない。まったくもっておかしな話だ
黄色い線の内側まで下がり、お酒は20歳になってから
なにしろ王妃は言葉にまで法を定めてしまったのだ
だから平民たちはみな法に基づいて物事を考えているし、法の下に、更に多くの法が定められていく
そうしてついに、マラソンと言えば、42.195kmになったのである


いやー42.195kmですよ
私はそこにどんな道理があるのか未だによくわかっていないままだが
王妃がそのように定められたのだから何も心配する必要などないのだろう
とにかく皆が盛大にそれらを称え、祝った
そこには、たくさんの素晴らしい逸話があった





私は王妃を心から尊敬している
中には暴君を語る逸話もあるだろうが、それは王妃を直接否定するものではない
「王妃のわがまま」は「わがままな王妃」とは全然違うのだ
私は「王妃のわがまま」と呼んではいるけれど
平民たちが王妃の御身を気遣って勝手に定めた法も多いのである
人の世界はそんなに単純ではなくて
「鍋に入れて放っておくと、良い出汁が出るのよ」
と、王妃はかつて、笑ってそのようなことをおっしゃっていた
だから私はそんな王妃を尊敬している


そんな風に私は王妃を尊敬しているが、それはまあ私個人の話で
一般に平民たちというのは2種類に分かれる
王妃を戴き、不合理な法を受け入れるものたちと
王妃を認めず、不合理な法を受け入れないものたちだ
法を受け入れないものたちは、王妃の下を離れなければならない


人の世界に、王妃は何もひとりだけではない
ある王妃をどうしても受け入れることができない場合は、どなたか別の王妃に仕えればよい
しかし人の世界に暮らしている限り、誰にも仕えないという選択肢は無い
人の世界で、王妃が存在しない場所というのは、どこにも存在しないのだ


この国には元号というシステムがあり、そこにはやっぱり王妃がいらっしゃる
元号は上手に扱うのが大変だ。どう考えても不合理なシステムなのだ
しかし何でこんな不合理なものを使い続けるのかと不満を抱いて王妃の下を離れたとして
例えば全てを西暦に統一することは、ちっとも事態の解決にはならない
元号と同様に、西暦もまた、何一つ合理性など持ってはいないきまりごとだからだ


だからそこにはふたりの王妃がいらっしゃる
元号には、それはもう由緒あるひとりの王妃の逸話がある
西暦には、それはもう偉大なるひとりの王妃の逸話がある
平民たちにとっては、どちらの王妃にお仕えし、どちらの逸話をより好むか、という話でしかない


結局平民たちに問われるのは正しさではなく、帰属意識ということになる
仕える王妃はいったいどなたかという、それだけの話だ
平民たちを支えているのは他ならぬ王妃の存在であり
王妃の存在を支えているのは他ならぬ平民たちである
決して切り離せるものではない


法だから重んじるのであり、王妃だから戴く
重んじられるから法なのであり、戴かれるから王妃である
王妃の下を離れるのは良いが、その際には丁寧な別れの御挨拶を申し上げることを忘れてはならない
あの御方たちが御乱心されると、それはもうほんとうに大変なことになる


なんなら両方に仕えてしまっても良い
この国の年号は、今のところそういうきまりごとになっている
おかげでここにはすごい逸話がふたつもある
平民たちは祝宴を日に2回も催すことが許されているのだ(それは素晴らしい!)


王妃が平民たちを愛し、平民たちが王妃を愛していれば
不合理が不合理としてそこに認められることは決してない
麗しい王妃がそこに居て、素晴らしい逸話がそこにあれば
凡百の合理性など、王妃のわがままに何一つ太刀打ちできない


王妃がひとこと「ごきげんよう」とおっしゃれば、それでたちまちあらゆる事が治まる
「王妃」の「わがまま」に人の世界が動いているから「王妃のわがまま」なのだ
不合理であればあるほど、その逸話は輝いている


不合理なきまりごとに合理的に対処しようというのが、そもそも合理的でないのです
王妃に謁見するというのに、異なる作法でもてなそうとしている。それではあまりに無礼です
相手は大変高貴な方なので、きちんと正装をして、かしこまる必要がある





やっぱり逸話が重要だなあと思う
魅力的な王妃のわがままには、魅力的な逸話が必ずある


人の世界にはまことに数多くの王妃がいらっしゃって
人の世界の、どんなに小さな組織の、どんなに小さなきまりごとの中にも、王妃の御姿があるのです
そこには必ず、何か逸話があるはずです


不合理なきまりごとに出会うのは楽しい
未知のきまりごとからは、未知の逸話を教えてもらうことができる
どうしても逸話が見つからないときは、適当に考えてそれを創ってしまうのもよい
お城にはどんなに素敵な王妃がいらっしゃるのかと、想いを馳せて綴ってみるのだ
それ以上の何かをするのは、畏れ多いことだ
私は平民である。逸話を語り継ぐのが私の仕事だ。自らの領分を超えてはならない





そういうわけで、私は暮らしの中でなにか不合理なきまりごとに出会うと
「王妃のわがままだなあ」と思ってしみじみします
それはそれで多少の問題があるような気はしていますが
私は謁見が許されるような身分でもないので、大人しく逸話を語っていようと思います


自ら謁見は望んでいなくても、たまたま遭遇してしまうということはあるのかもしれない
スタバでなんとかフラペチーノを飲んでいる高貴そうな人を見かけたら、急いで帽子を脱ぐ必要がある
丁寧に感謝の言葉をお伝えして、御挨拶をしておかなければならない


何しろ人の世界は、その御方のわがままでできているのですから