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カリカリに焼いたベーコン

先日の朝、私がカリカリに焼いたベーコンを食べたときのお話です


私はそのとき、カリカリに焼いたベーコンを食べていながら
カリカリに焼いたベーコンを食べていなかった
それによってまさに、初めて、私はカリカリに焼いたベーコンを食べることができた(ような気がした)


こんな風に書いてしまうから、わけがわからなくなるんだよな


「先日の朝、私はカリカリに焼いたベーコンを食べました」


事実の描写はこの1文で完璧なのに
実際、起きた出来事はそれだけです
言葉の使い方というのは、本来このくらいが丁度いい塩梅なのです
それなのに言語化できないことをわざわざ言語化しようとしたりするから
言葉が自身の限界を呈してしまう。わけのわからんことになる





「余計なものがなにもない」、そういう体験が在る


カリカリに焼いたベーコンを食べる前に「カリカリに焼いたベーコンを食べるぞ」とか考えたり
カリカリに焼いたベーコンを食べながら「カリカリに焼いたベーコンは美味しいなあ」とか考えたり
カリカリに焼いたベーコンを食べた後に「カリカリに焼いたベーコンを食べたなあ」とか考えたりする
それら全てがカリカリに焼いたベーコンから遠く遠く離れている
それら全てが、余計なものだ


カリカリに焼いたベーコンを食べるためには
カリカリに焼いたベーコンを食べてはいけない


カリカリに焼いたベーコンを食べるためには
カリカリに焼いたベーコンを食べてはいけない
と、考えてもいけない


カリカリに焼いたベーコンを食べずに、カリカリに焼いたベーコンを食べることができたとき
人はカリカリに焼いたベーコンを食べることができるのである
そういう体験は一生に何度もできるものではない
先日は、たまたまそれができた


まあ、それができたからといって、なんにもならない
そのなんにもならなさが、私はとても好きなのです





原理的に人間は「それ」を必ず取り逃がす
たまたま(本当にたまたま)「それ」を取り逃がさずに済んだとき
意識には過去形の「カリカリに焼いたベーコン」が残る
(もっとも、結局は取り逃がしている。だから「それ」は、いつだって過去形で現れる)


「未来」も「過去」も約束であって実在ではない
「現在」もまた、捉えられた瞬間に幻となる
「捉えた」と言ってしまったら取り逃がす仕組みになっているのだから上手い
よくできてるよなあと思う


残滓だけが言の葉になる
残り物には人生がある


「それ」を「真理」とか「悟り」とか呼んでしまうと
そういう話になってしまうのでめんどうですよね
だから私はどうしても言選りに慎重になります
人間はすぐ神秘主義する。よくないことだ
神秘は素晴らしい調味料だけれども、ベーコンには合わない


「神」、「仏」、「梵」、「道」、その他色々
こんなしょうもないことを説明するために招待したら
阿頼耶識もアストラル界も泣きますよ
言葉を変えたら言葉が変わってしまう
私はカリカリに焼いたベーコンを食べただけなのに


だから私は、「それ」を「カリカリに焼いたベーコン」と呼ぶのです
なかなか親しみやすくてよい呼称だと思います
誰がどう見ても、私はカリカリに焼いたベーコンを食べたのだし、そのときのそれが「それ」だ
わかることをわざわざわかんなくするから、わかんなくなるのだ





こうして、「それ」は「カリカリに焼いたベーコン」になり、なかなか親しみやすくなった
親しみやすくはなったけれど、「カリカリに焼いたベーコン」は、いやはや簡単な相手ではない
私は、私には「カリカリに焼いたベーコン」はもう2度とできないかもしれないと思っている
「カリカリに焼いたベーコン」は、自在の対極に居る
「カリカリに焼いたベーコン」は、望んで叶うものではない


ただ、「カリカリに焼いたベーコン」のほんとうによいところは別にある
「カリカリに焼いたベーコン」は、できなくても何も困らないのだ
「カリカリに焼いたベーコン」がもう2度とできないとして、果たして困ることがあるだろうか
いや、ない
ほんとにない


人はできないと困ると思っていることだけが、できないと困る
私は「カリカリに焼いたベーコン」から、そのことを教わった
そしてそれが、「カリカリに焼いたベーコン」のほんとうによいところだ


できないときは、できない
そのときは、そのとき


こんな風に書いてしまうから、わけがわからなくなるんだよな


言語化、それは駄目でもともと
わかることだけがわかるのだから


結局、言葉なんて「カリカリに焼いたベーコン」だけで充分なのです
ベーコンをカリカリに焼いて食べてみればわかるような話でもないけれど
ベーコンをカリカリに焼いて食べてみれば、わかる