スキップしてメイン コンテンツに移動

「霜が降りる」と「霜降り」
前者は「り」で、後者は「り」
私はなんとなくそういうのに反応してしまいます


「霜がりる」
「霜がる」
「霜り」
ここまでは自然言語に用例が見つかる


したがって欠けた「霜り」の存在が理論的に予言されるわけだけれども
この「霜り」だけが未だ自然界では観測されていない
ふしぎ


構造に非対称性がある。私はそういうのなんか好きです
構造というものは、シンメトリーであってもアシンメトリーであっても美しいのだ


どうでもよいことなのだけれど、"asymmetry"という記号列を読むときは
「エイシンメトリー」と発音したくなるのに
カタカナで記述するとなると「アシンメトリー」と書きたくなってしまうなあ
書いてたら気づいた
私はそういうのもなんか好きです。いいかげんはともだちだ





ささやかな予言を自分のちからで立てることができると
学問というやつが少し浮かばれるような気がします
ことがらを「予め言う」というのは、ものすごくすごいことなのだ。叡智である


ときに叡智は壮大な予言を可能にする
例えば「1万2千年後にはおりひめ星が北極星になる」というように
ものすごくすごいことだ。学問は人類をそういうきらきらと輝く記述に到達させる
だから叡智はいつも堂々としていて、栄光に満ちている


ただ、そういうすごさに対面すると、どこか供養のような心地を抱いてしまうのが私なんですよね
栄光にはせつなさがある。学問は素敵にせつない





スーパーを歩いていたら、いつかふと「霜り肉」が観測されるのかもしれない
あるいは、いつまでも観測されないのかもしれない
人が予言を記述できることには慰めがある。私の感覚はやっぱり供養だと思う


いったいなにが「やっぱり」なのか
詳らかにしようという気もないままに
私はただ予言をします


「あなたはいつか霜り和牛に遭遇する」


当たっても外れてもなんにもならない予言は良いなあ