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13cm

今日は冷凍うどんを調理して食べた
冷凍うどんは麺と具材が円筒状の塊になっていて
付属のスープの素とともに熱湯に入れ数分煮込めば出来上がるタイプの便利なやつである


うどんを調理するとき、諸事情から自宅にあるいちばん小さな鍋を使った
その鍋はなかなかに小さいのでうどんがちゃんと入るかどうか心配だったのだが
いざ入れてみるとうどんは鍋にぴったりと収まった
その様子を見て私は思った


「収まりが良すぎる」


測ってみると、鍋の内径は約15cm、冷凍うどん(固形時)の直径は約13cmであった
思いの外両者は互いに良く収まる寸法をしている
瞬間私に「これは偶然ではないな」という閃きがあった


「もしかして内径13cm未満の鍋は存在しないのでは?」


こうして私は鍋の工業規格について調べることになりましたとさ
めでたしめでたし





さて、探せば出てくるものです。ありがとうインターネット


『JIS S2010(アルミニウム製加熱調理器具)』


JIS(日本工業規格)の文書は著作権保護がなされており、購入しないと印刷やダウンロードはできない
しかしこちらで該当資料を検索すれば閲覧だけは可能だ。ありがとうJISC(日本工業標準調査会)
そういう事情なので、お手数ですが詳細の気になる方は各自検索の上内容をご確認下さい


さて、上記資料の『附属書B(規定)鍋類の呼び経、寸法及び最低底厚』によると
鍋の内径のうち最小のものは140mm、許容差は±3%とある


どうやら日本工業規格的に最小の鍋は内径14cmということで
私の使った15cm鍋は2番目に小さい規格だったようである


許容差3%を考慮した上で計算してみると、140mm × (100 - 3)% = 135.8mmだから
日本工業規格に準拠した鍋は少なくとも内径13.58cm以上ということになる
というわけで結論です


「13cmの冷凍うどんは(楕円等の特殊形状を除く)国内のあらゆる正規の鍋に収まる」


やはり閃きは閃きであった
これは偶然ではあるまい。完璧に計算された仕事です
全てを理解した上で製造しない限り、決して冷凍うどんは13cmにはならないと、私は思います


鍋13.58cm、冷凍うどん13cm
冷凍うどん製造時の誤差を考えると猶予はわずか数mm
感動的な数字である。おそるべし冷凍うどんメーカー





「鍋に冷凍うどんがぴったりと収まる」
こういう「それがそうなる」に出会うとぞくりとしますね


「それがそうなる」には、たいてい浅からぬ背景があります
そうなるとき、そうなることは、偶然にそうなるのではありません
そうなるとき、そうなることは、そうなるように定められているから、そうなるのです


あちらのホームセンターで買ってきた名も知れぬメーカーのボルトと
こちらのホームセンターで買ってきた名も知れぬメーカーのナットは
互いにぴったりと噛み合います


両者は偶然に噛み合うのではありません
そうなることは、そうなるように定められているのです


「それがそうなる」
たいへんなことだ


人間社会は非常によくできている
誰かが定めたものがあり、人知れず守られている
そして、人知れず守られているとき、人知れず守られているものを、人は知らない





さて、更に追求してみると、上記のJISには対応国際規格の記載がない
すなわち「鍋の内径最小14cm」というのは日本の国内規格、ローカルルールであることがわかる
したがって、おそらく国外の鍋に関しては「冷凍うどん13cm」は通用しないと思われる


世界は広いので、もっと小さい鍋もあることだろう
冷凍うどん自体が日本のローカルフードなので、いまのところ問題になっていないだけなのだ


本邦の鍋ならば、冷凍うどんは収まる
しかし異邦の鍋ならば、冷凍うどんははみ出すのかもしれない
そのとき人々は初めて「あれ、入らんな」とほんの少し困ることになる


ほんの少し困るのは、ほんの少し楽しいですね
世の中には「それがそうならない」もあるわけです
「それがそうならない」、私はとても好きです


鍋に冷凍うどんが収まるとき、人々が何かを気に留めることはない
鍋に冷凍うどんが収まらないとき、人々は初めてそこで「人知れず守られていたもの」に気づくのだ

道明寺なずな

糊の老舗ヤマト株式会社の商品に「アラビックヤマト」という液状のりがあります
文具店によく置いてあるので、ご存知の方は多いでしょう


その「アラビックヤマト」という名称に
「名古屋名物台湾ラーメンアメリカン」感を覚えまして
なかなか無国籍だなと、気をとられてしまいました


まあ「アラビック」の方はたぶん「アラビアガム」由来だろうと思って調べてみたところ
やっぱりそのとおりでした。そこは問題なかった


しかし、「ヤマト」の方の由来は「大和」ではなく「矢的」だったのです
これは個人的に驚き。無国籍でもなんでもない


会社概要を見ても、間違いなく「ヤマト」は「矢的」です
というかロゴマークの意匠が既に矢的です。なぜ私はこれを見逃していたのか
私が勝手に大和のイメージを抱いていただけのようで、申し訳ないきもちになったのでした
おわり





ただ、記憶の限りアラビックヤマトの「ヤマト」を
「矢的」の抑揚で呼ぶ人に出会ったことがないんだよな
みんな「大和」の抑揚で呼んでいる気がする
私の周辺だけでしょうか


「矢的」なら「なずな」の抑揚になるはずですよね
「大和」だと「セロリ」の抑揚になってしまいます
私だけでしょうか


改めて「なずな」の抑揚で「ヤマト」と言ってみると
非常に不思議なかんじがする


なずな


「セロリ」の「ヤマト」のときは「アラビック」の抑揚は「筑前煮」なんだけど
「なずな」の「ヤマト」のときは「アラビック」の抑揚は「道明寺」の方が発音しやすい


「筑前煮セロリ」と「道明寺なずな」ですね
なんかキャラクターの名前みたいだ


筑前煮セロリ


道明寺なずな


こうしてみるとなんのことやらだなあ
音声の話は文字で書くとわけがわからなくなってよい
みなさんは普段どんな抑揚で「アラビックヤマト」をお読みでしょうか





抑揚、いろいろ試してみるとおもしろい。新鮮です

道明寺なずな

読み方ひとつで、親しい相手も初対面のよう

生卵

本日、生卵がよく回りました
めでたい





生卵を割る前にとりあえず独楽のように回してみることを
私は個人的な習慣としています


生卵を一度でも回してみたことのある方はご存知でしょう


「生卵はよく回らない」


その理由は以下の通りです


生卵は中が流体なので回転運動を与えると内部に慣性の法則が働き、一部だけが回転する
そのためふらふらと不安定に回ってすぐに止まってしまう


一方、ゆで卵の場合は中が固体になっているので全体が均しく回転する
そのため安定してくるくると比較的長い時間よく回る


「とりあえず回してみる」
これは経験的にも広く知られた生卵とゆで卵の判別方法です


もっとも、厳密な説明を与えるには
角運動量の話を持ち出してじっくりやらなければならないのでしょうが
私はテキトーなので適当なところで切り上げます
物理学という学問はこういう経験的な現象にちゃんと説明を与えるのでえらい


理論があり、導かれます


「生卵はよく回らない」


だから、生卵はよく回りません
しかしそれでも私は生卵を回すことを習慣としているのです


なぜ「よく回らない」という結果がわかりきっているのに、私は毎回生卵を回すのか
それは私が物理学をあんまり信じてないからです


誤解なきように言っておくと、私は物理学そのものを否定しているわけではありません
むしろ私は人並みかそれ以上には物理学を信じております


物理学のお話というものはすばらしく確からしい。それは確かです
しかし、そこが限界でもあります
私は「物理学は言葉の領域のものだ」と思うのです





物理学とは、たかだか言明である
そのたかだか言明であることに、なんとも心もとない心地がする


「生卵はよく回らない」


これは言明である
「言明である」とは「現象ではない」ということだ
言明と現象とは、一致が確認されて初めて一致するものだ


例えば私が生卵を回す前に、先程の理論に基づき
「生卵はよく回らないよ」と言ったとしよう


当たり前のことだけれど
この段階では生卵はまだ回されていないのであるから
現象としての「生卵はよく回らない」はまだ起こっていない


そのときそこに存在しているのは
「いまだ確認されていないが、物理学的にはよく回らないと予言されている生卵」だ
これは「実際に生卵がよく回らないという現象」とは全く独立である


私の「回す」という行為によって生卵がよく回らないことが確認されて初めて
「生卵はよく回らない」という言明と「生卵はよく回らない」という現象が繋がる
言明と現象とは、本来ぜんぜん無関係なのだ





人間が言明などしなくとも
もともと現象はただ現象として成立することができる
現象にわざわざ言葉を与えるのは、人間のしわざである


過去既に起きたことは過去既に起きた
現在これから起きることは現在これから起きる
過去既に起きたことと、現在これから起きることは、本来ぜんぜん無関係なのだ


人間の「過去(原因)があるから現在(結果)がある」という「言明」が
言葉の領域で両者を繋ぎ留めている
人間のしわざだ


そんなことしなくても、もともと現象はただ現象として成立することができるというのに
だから言明と現象の間にはいつも断絶があります


過去は過去、現在は現在です
過去の生卵は過去の生卵、現在の生卵は現在の生卵なのです


「生卵はよく回らない」という言明と「生卵はよく回らない」という現象の一致をみるためには
ほんとうはいついかなる場合においても、生卵を回して確認しなければならないわけですね


しかし、実質無限回の試行回数を要求するこの実証手続きは、人間には不可能です
人間はいろいろといそがしいのだ


人間には「生卵はよく回らない」という言明の正しさを保証するために
存在するすべての生卵を回している暇がない
だから次善の策をとる。人間はやむなくいくつかの生卵を回し
それらが全てよく回らないことを確認して良しとし
あとは「ほんとはいつも回さなきゃいけない」を無視するのだ


この方法は、賢い
ほんとうはいつも回す必要があるところを、たいへんだから無視する
得られた言明「生卵はよく回らない」は、驚くほどによく当たる。充分である
人間はその言明を「知識」と呼ぶ。人間はとても賢い


一旦無視が有効であるとわかると、人間は賢いのでだんだんと話を効率化してゆく
実際に生卵を回して確認する人は減ってゆき、「生卵はよく回らない」を語る人は増えてゆく
現象は人々から失われてゆき、言明は人から人へと受け継がれてゆく


おしまいには、生卵を少しも回さない人も
「生卵はよく回らない」と予め断言できるようになるのだ
人間はその言明を「知識」と呼ぶ。人間はとても賢い


みなさん、どうでしょうか
これまで一度も生卵を回したことがなく、これから先も生卵を回すつもりのない人が
「生卵はよく回らないよ」と述べたとしたら、その言明は果たして正しいのでしょうか


これまで一度も宇宙に出たことがなく、これから先も宇宙に出るつもりのない人が
「地球はまるいよ」と述べたとしたら、その言明は果たして正しいのでしょうか


生卵を回すまでは、言明とは信仰であると私は思います
生卵を回すことで初めて、言明は現象と出会うのです
少なくとも回さないまま言うよりは、そうなのです





行為によって初めて言明と現象とは一致する。とても大切なことだ
そしてもひとつ重要なことがある
言明と現象とは、必ずしも一致しない


「現象は言明を超えることがある」


私が毎回生卵を回す理由はこれです


言明は現象ではないのだから、「生卵はよく回らない」という私の知識は
眼の前の生卵にこれから起こる現象とはまったくなんの関係もない


「ひょっとすると生卵はよく回るのではないか」


言明といくら向き合っても、これはわからない
現象は行為によって初めて明らかになる
私にできるのは生卵を回すことだけだ


毎回毎回、特に期待せず、ただ淡々と生卵を回す
いつかは言葉の領域の外側、「現象」に邂逅できるかもしれないし、できないかもしれない


それだけです
そしてそれは、確かに今日訪れたのです


本日、生卵がよく回りました
じつにめでたい


生卵がくるくる回る


言葉の外側は、よいところです


落雷に当たる確率は千万分の1と言われている
しかし、当たった人にとってだけ、落雷の衝撃は紛れもなく本物として現前するのだ


生卵がくるくる回る


ほんとうにめでたい


だから私は現象について次のように言明することができるのだ
拙語をとくと御覧じて頂きたい


「生卵はよく回ることもたまにある」


すばらしい!





もちろん生卵がよく回ったからといって
既存の物理学の確からしさは少しもひっくり返りません


私は先人に心から敬意を払います
物理学はまことに正しいですよ


本日生卵がよく回ったというのは、偶然です
統計的な視点から学問を仔細に深めていけばいずれ出てくる話でしょう


ただ全体を鑑みて無視しても構わないような些末な例外が例外然として発生し
私がたまたまそれを観測して「例外が例外然として発生したなあ」と感じ入っただけのことです


「大方の予想」と呼ばれるものは
いちいち付き合ってるとたいへんなのでこういう例外をどんどん無視するわけです
それで世の中には、無駄を省かれ、洗練された、優れた言明が残っていくのです


「生卵はよく回らない」


非常に簡潔で、非常に美しく、非常に正しい
「生卵はよく回ることもたまにある」なんて、とても相手になりません


だから「生卵はよく回らない」でよいのです
ただ、私は「大方の予想」の最大の魅力は
ときどき気持ちよく外れることなんじゃないかなあと思っています


普段から「例外」をどれだけ信じているか
これが各人の趣味の大きく分かれるところでしょう


私は「例外」をかなり信じています
たぶん、物理学以上に





さて、本日は生卵がよく回った
めでたいことであった


その生卵が止まったあと、私はもう一度それを回した


もしもよく回る生卵に出会うことができたら
もう一度それを回すと、私は予め決めていたのだ


すると今度は大して回らずに
生卵はふらふらと揺れて止まった


これですよこれ
先刻は回り、今度は回らない
この惜しみのなさ


だから私は現象が好きなのです
さあ言明しましょう


「生卵はよく回る」
「生卵はよく回らない」
「同じ生卵なのに」
「違う生卵だから」


回るとはなにか。同じであるとはどういうことか
溢れ出す言葉の奔流を、生卵はくるりと回って一蹴します


どちらでもあり、どちらでもなく
どちらにもでき、どちらにもできない


「生卵はよく回るし、生卵はよく回らない」
過去の生卵と現在の生卵は同じ生卵だし、違う生卵だ」


こうしてなんの意味もない言明が生まれるのです
意味をなさない文章、実によい。好きですねえ


哲学は言葉の真剣勝負。現象は我関せず
くるくるふらふらと通り過ぎてゆきます


暖簾に腕押し、暖簾がひらりと舞う
「暖簾に腕押し」が言明であり
「ひらりと舞う」が現象なわけです





生卵を割る前にとりあえず独楽のように回してみることを
私は個人的な習慣としています


御託を並べても現象は待ってくれない
これは仕方のないことなのだ


言明を超えて現象にえたければ
回すしかない


「生卵はよく回らない」


人間がそんなことを言っている間に
「よく回る生卵」は遥か彼方に夢幻です


仕方ないですね。実に仕方がない
仕方がないので、やっぱり私は生卵を回します

旧い自転車

新年ということで夜半過ぎに初詣に出かけた
神社に向けて、点々と街灯に照らされた人気のない道をひとりてくてくと歩いていると
自転車に乗った老人が後ろからすっと私を追い抜いていった


なんとなく「あの人も初詣に行くのだな」と思った
相手の行き先がわかるわけではないので、なんの根拠もない判断だ


自転車のどこかの部品が歪んでいるのだろう
そのとき「ぐう」とも「ぎい」とも聞こえる音が夜のしじまに響いた


「ぐう」とも「ぎい」とも聞こえる音は
「ぐう」とは聞こえない音だったし「ぎい」とも聞こえない音だった


まーた仕方のないことを書こうとしているので、オノマトペの話はやめます
老人の自転車からは、言葉にすると仕方のない音がしていた


私はその音を聞いた途端「ああ旧い自転車だな」と思い
「この音は、あの自転車にしか出せないだろう」と思った





歳月の音だ
なるほど。歳月はこういう音がする


自転車が走り去り、老人の姿が見えなくなるまでの短い間に、その音は周期的に鳴った
私は冷えた両耳を注意深くその音に傾けた


その音から、私は車輪のひとつひとつ回るのをしみじみと感じた
その音から、私は年月のひとつひとつるのをしみじみと感じた


何か走馬灯のような感覚があり
その音には人の生というものが非の打ち所のない調和で織り込まれているようなかんじがしたが
しかし同時に実際はどうでもよきことが雑然と散らかっているだけのようなかんじもするのだった





以上のようにして私は刹那に悠久を感じましたが
それは私が勝手にそう感じただけです


ぜんたいなにも起きてはいない
自転車に乗った老人が初詣に向かう私を抜き去った以上の出来事はなにもない
その自転車が旧く、さもありなんという音を出していた以上の出来事はなにもない
それだけだし、それだけである


しかし私のなんの根拠もない判断は
一連の出来事によってすっかり確信に変わった


「あの人は初詣に行く」


相変わらずなんの根拠もないが、今度は疑う余地がなかった
論理的に考えて、それ以外の可能性がなくなったのだ


「旧い自転車からさもありなんという音がしていたので、あの人は初詣に行く」


論理ですね。これぞ論理
私の論理はいいかげんです





老人の姿は見えなくなり
私は再びひとりてくてくと歩いた


歩きながら先程の自転車の音を想うと、名状しがたい感慨が襲ってくる
そして私は、なんか笑ってしまうのだった


おみくじを引く必要がなくなった
引くべきものを引いた

やかん

この季節は石油ストーブに水の入ったやかんをかけて部屋の加湿をしている


夜眠る前にはストーブの火を消すのだが
このとき火はすぐに消える一方で、余熱によりやかんからはしばらくの間湯気が出続ける


やかんのお湯は遅れて次第に冷めてゆき、湯気はやがて静かに止まる
その火が消えてから湯気が止まるまでの時間が、ゆったりと長い


最近そういう現象に気づいて、毎晩ストーブの火を消すのが楽しみになりました
一部始終を眺めていると、世界は十全と感じます
しみじみとすばらしい


しかし、このすばらしさは言葉にしても仕方がないタイプのやつなので
言葉にすると仕方がなくなってしまうのでした
仕方ないなあ





やかんから昇る白い湯気が
少しずつ、少しずつ、低く、淡くなる
その様子を、私はただじっと見つめている





空間と時間が在る
思い残すことがない