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権兵衛

「名無しの権兵衛」って
名、在るやん


「名無しの」と枕を置いて「権兵衛」とな?
と、ほんの一瞬、疑念を抱いてしまった。迂闊だった


『あいつの名前は権兵衛っていうんだ。権兵衛には名前が無いのさ』


ああ気付いてはいけなかった
早速こちらを覗かれている
まーた深淵に挨拶をしなければならない





「誰かさん」を意味するメタ人名は世界各国に存在する
総覧は英WikipediaのList of terms related to an average person
(平均的な人物に対する用語の一覧)に詳しい


拝見してみるとなんだか山のように要出典がついている
幸運なことに私は「信じる」という魔法を習得済みなので事なきを得た


出典とは無限に続く出典の連鎖への入口である
疑い始めれば果てはなく、遅かれ早かれどこかで魔法が必要になる
したがって私は、最も怪しい段階から早々に信じることにしている
書かれているので、あとはただ信じればよい
地球は丸いのだ(要出典)


で、件の総覧をざっと眺めてみると各国の文化的背景など垣間見えて面白い
インドの「आम आदमी(common manの意)」とか中国の「某某」とかは、ははぁ、なるほどなあと思う
そして日本(Japan)の欄には、やはりいらっしゃいますね。「Nanashi no Gombei」が


読めない言語は読めないので定かではないが
「名無しの権兵衛」に類する逆説を冠した呼称はどうも稀のようである
深淵に暮らす「誰かさん」は、世界的にも特異な存在らしい


うーむなんと名無しの権兵衛の不可思議さよ
「人呼んで権兵衛」とか「権兵衛(仮)」だったらなんの問題も無かったのだけれど
「名無しの」が歴史的に選択されたのがすごいですね


権兵衛は権兵衛ではない
されど権兵衛は権兵衛なのだ





あまりに堂々とパラドキシカルなことをされると、案外気にならないものです
その姿勢、見習わねばと思う


堂々とやるのがポイントだな
誰にも気付かれないままに混ぜてやれば、油は水に溶けることができるってことだ
(もちろん油にも水にも、それを気付かれてはいけない)


堂々の真髄は無自覚なのかもしれない
自覚のある境地など到底境地ではないのだと、つくづく思い知らされる
「気付いてはいけなかった」という直観の正体は、恐らくそこにある


私が気付いてしまっては、相手にもまた気付かれてしまう
私が気付いていなければ、相手にもまた気付くことはできない


権兵衛自身は、きっと何も気付いていないのです
それゆえに、高みに居る

鉄の味がする水

普段飲み物を飲むときは、真空断熱タンブラーというものを常用しておりまして
それを使う度に感じていることがあるので記しておこうと思います





「真空断熱タンブラー」で画像検索していただければ、それがどんな見た目をしているかわかるだろう
意匠に細かい違いはあるけれど、基本的にはステンレスでできた、何の装飾もない全面金属の器だ


私は普段その器にあまり上等でない烏龍茶を注いで飲んでいるのだが
その行為は現実とのやむを得ぬ妥協点であって、あるべき姿ではない
そのあるべき姿でなさを、日々ひしひしと感じている


あまり上等でない烏龍茶というやつは、あまり上等でない盆に並んだ
あまり上等でないガラスのコップをひとつ手に取って注ぎ
あまり片付いていない机の上にそれを置いて、飲むべきだと思う


コップから流れ落ちた滴が机に描く円い輪が、世界を完結させる魔法陣なのです
私は毎回大変申し訳ない気持ちになりつつ、結局件の真空断熱タンブラーを使って烏龍茶を飲む
どうすることもできないことは、どうすることもできない





器と中身には、あるべき姿というものがある
ビールがジョッキに、ワインがワイングラスに、緑茶が湯呑みに注がれるとき
そこに完結された世界が宿る


鋳型を見れば、そこに鋳物の姿が映るように
器を見れば、そこに器を満たすべきものの姿が映る


ラムネの瓶はラムネで満たされるからラムネの瓶なのであって、それを忘れてはいけないわけです
ラムネの瓶に葡萄酒を入れたって別に構わないのだけれど
それをやる人は「ラムネの瓶にはラムネ」というあるべき姿の方を、重々承知していなければならない


世界は自由なのだけれど、自由は思慮深さを求める
物事を「守破離」の「破」から始めてはいけないのだ


「真空断熱タンブラーに烏龍茶」は完全に「破」なので
「守」に対する敬意をもってやらなければならない
謝というか、贖というか、そういう心が必要だと思う




ほんとうに先立つのは「守」の方なのだ
鈍色の金属光沢を放つその器に、満たされるべきものの姿が、まず何よりも先に在る


それは烏龍茶では、決して、ない


それは「鉄の味がする水」だと思う


真空断熱タンブラーは、その時を待っている
ずうっと昔から、待っている


地下深く、日の当たらないじめじめとしたアーケードで
ごちゃごちゃした路地の裏にある傾いた蛇口をひねると出て来る水
長く入り組んだぼろぼろの配管を抜けて、ほんのりとかすかに赤黒く染まった水


その器は、その記憶を持っている。その味を識っている
その器は、そういう場所からやってきたのだ


その器を見れば、それを満たすべきものの姿が映る
明日はあるけれど明後日はない老人から
すえた油の匂いを纏った鼠の唐揚げの食べ方を教わりながら
幼い子供が鉄の味がする水を飲む
老人は笑って、やたらと度数が高いだけの酒を飲む
そのときに、彼らが手にしているのが、その器なのだ


格好良いっていうのは、格好が良いということだ
世界(=格好)が完結している(=良い)ということだ


だから器の世界を完結させる必要がある
しかし、この文章を書いている今も、私は結局いつも通り烏龍茶を飲んでいる
世界を宙ぶらりんのままにしている


仕方のないことなのです
鉄の味がする水は、此処では、望んで手に入る代物ではないのです
鉄の味がする水は、此処では、あまりに上等でなさすぎたのです


それは方便でなくまことの事実だが、器は語りかけてくる
「鉄の味がする水を殺してしまったのは、あなたたちだ」と





誰にも助けを求めることなく静かに
鉄の味がする水は殺された


公園の水さえ、此処では綺麗に澄んでいて
鉄の味がする水は、どこを探しても見つからない


だから器の言い分は尤もなのだ
ほんとうに、ただただ申し訳ない気持ちになる


私たちが鉄の味がする水を殺したし、今でも殺し続けている
私たちには殺めているという自覚が無い


だから私たちは平然として、此処からあまりに上等でなさすぎるものたちを排除していく
それで最後にどうなるかはわかりきっている
此処には、あまりに上等でなさすぎる私たちが残るのだ


誰にも魔法陣を描くことができなくなる前に
此処から逃げ出す方法を考えなければならないような気がしている


だって鉄の味がする水は殺されてしまったのだ
もう綺麗な水しか飲むことができない
私たちは取り返しのつかないことをしている


完結の時は来ない
器はずっと待ち続けている
私にはどうすることもできない


此処の水は美味しい
だから此処は、とてもおそろしいところなのだ

おつままれ

気球と風船って、名前逆なんじゃないかとか
豆腐と納豆も、名前逆なんじゃないかとか
唐突にそんな疑問を抱いたことがあるのは
私だけではないことと存じます


本日は、そういう名前のズレの話です





気球は実際は風の船だし
風船は実際は気の球だ


豆腐は実際は納められた豆だし
納豆は実際は腐した豆だ


ものの名前にはなんでかそういうズレがしばしばあるわけで
そのうち美しく相互に対応関係を成すものについて
私は勝手に「気球風船対(ききゅうふうせんつい)」と呼んでいます
多分他にもあると思う


もちろん気球も風船も辿れば歴史が、語源があり
その名に至ったいきさつというものがあるはずなので
それぞれ逆でもなんでもない正統な名前なのだろうけれど


言葉それ自体には歴史や語源という情報が含まれていないので
名前だけ聞いたとき、ふっと感じられるそのズレに、私は惹き付けられるのです


細かいことは気にしないで
素直におかしさをおかしむのだ





組からなるものがあるなら、群からなるものもあるんじゃないかと思って
ものの名前というものをあらためて見てみると、ズレているものはやっぱり結構見つかる


ハサミはハサんでいるか
キリはキッているか
サシはサシているか
してない


ハサミは切ってるんだからキリだと思う
キリは刺してるんだからサシだと思う
サシは測ってるんだからハカリだと思う


残念ながらハカリは正しくハカっているのでそこでおしまいですが
どこかに美しいズレの大循環がありそうな気がしている
なさそうな気もしている


まあこれらは音声だけの話なので
ハサミは「鋏」と漢字で書いてしまえばそれまでです


いや、しかし、金に夾というのも如何か
金に刀とかの方がしっくりきてたのではないだろうか


鍛冶仕事の、熱した金属を挟む道具が「鋏」なのはとても納得がいくけど
切断する方も「鋏」って呼ばれるのは、果たしてそうなのだろうか
いや、そう呼ばれてるんだから、そうなのか
あ、「剪刀」って書けばいいのか
うーむ、それで万事解決と言えるのか?


そんなふうにあれやこれやと巡らせていると、突如

挟む ≠ 切る

と全く断絶して捉えられていたものが、実は

挟む ∋ 切る

という関係性にあるのではないかと気付いたりして
世界観のパラダイムシフトが起きたりするわけです





言葉はテキトーだが
人の心もテキトーだ


名前がズレていると感じるとき
ズレているのは自分の方かもしれないのだ


彼方か、此方か
果たして





考えていると、またひとつ出会いがある


「おつまみ」は「おつままれ」ではない


なんだかとても、幽玄な気がしてくる