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フグのイニシエーション

人類が初めて出会うものに対して「とりあえず食べてみるか」と挑戦できる人はありがたい
ありがたいとは文字通り「有り難い」、「あることがむずかしい」という意味だ


食べても大丈夫かどうかよくわからんものを「えいっ」と食べてしまう
これはたいへんな挑戦であり、なかなかできることではない
ゆえにそれができる人はありがたいのだ


例えば「人類で初めてフグを食べた人」の体験などは、想像もつかない躍動があったことだろう
「初めてフグを食べた人」というのは、それはそれはありがたい存在だ


そういうわけで「初めてフグを食べた人」はありがたい
しかし、ほんとうにありがたいのは実は「初めてフグを食べた人」ではないのではなかろうか
ほんとうにありがたいのはむしろ「2番目にフグを食べた人」なのではなかろうか
本日は「2番目にフグを食べた人」の話をします





「初めてフグを食べた人」、道拓く挑戦者が挑むのは
「食べられるのか、食べられないのか」というわかりやすい未知への賭けだ
そこには勇気がある


当然賭けに敗れてしまった場合、その人は犠牲となってしまう
そしてひとつの命が犠牲になることで、人々は「フグには毒があるので食べられない」を学ぶ


「初めてフグを食べた人」は、フグに毒があることを知らなかった人であり
「フグは危ない」という知を後世に遺した人である


しかし「2番目にフグを食べた人」のやってることはぜんぜん違う
「2番目の人」は、出来事の顛末を既に学んでいるのだ(!)


「危ない」という先駆者が遺した知を充分に理解した上での「いや、それでも食べるぞ」という決断
これが極めてありがたい。それは既知への賭けなのである
「2番目の人」の挑戦は「初めての人」よりもはるかに挑戦的だ


「食べられないけど食べたいので食べます。危険と知ってはいるが、それでもかまわん」
そこには狂気がある


そういうわけで、「フグを食べる人」には「初めての人」と「2番目の人」がいる
それは「危ない」を知らなかった人と、知っていた人だ
両者はともに決断し、危険を冒す。しかし、その決断の意味合いは全く異なる


「2番目の人」の決断には「初めての人」からの大きな大きな飛躍がある
そして私は、その飛躍が好きなのです





命というものは原理的に飛躍を拒む
命の至上目的は自身を安定させ、継続させることにある
しかし飛躍はそこに対して、真逆となる自身の不安定と断絶を処方する行為なのだ


だから命は飛躍を断固回避するために、前もって知を集めようとする
人は自分が食べる段を最後の最後まで後回しにする


例えば人類は初めて出会うものに対して、予め成分分析をしたり、動物実験をしたり
色々と周り道をして、自分で食べる前にできるだけリスクを下げようとする
そうやって「どうやら食べても大丈夫らしいぞ」という知を積み重ねていく


現代は知のたいへん豊かな時代である
つまり、現代は命をとても大切にしている時代ということだ


しかし、そこにはいつか必ず越えることのできない限界が訪れる
いくら大量に積み重ねても、知は知にすぎないのである


いざ自分が食べる段になったら、もう自分が食べるしかないわけです
現代の知はたいへん豊かなので
既に「100%の安全保証というものはできない」という知が得られている
だからその上で「フグを食べる」という選択は、命にとって必ず命賭けのチャレンジになる





ゆえにこれはひとつの「儀式」であると、私は思う
人類の知は決してリスクを0にすることができない
ゆえに「フグを食べる」は、人類にとっていつまでも挑戦であり続ける


だから「フグを食べる」という境界を自覚的に飛び越えることができたとき
人は本質的にいにしえの「2番目の人」と同一の状態になる
こうして儀式を通過した人は「2番目の人々」への仲間入りを遂げるのだ


偉大な瞬間だ
これを「偉大」と形容しているのは、私の趣味です
だってひとつの命が飛躍を遂げる光景を「偉大」と言わずして他になんと言ったらよいのでしょう
死ぬかもしれないと知っていながら、なお死を賭してフグを食べる決断をした人の、その命の飛躍を


「ひょっとして『ただの馬鹿』なのでは?」という意見が聞こえてきそうだ
うーんごもっとも。まことに正しい。しかしそれは私の趣味ではありません


おっしゃる通り「知っていてなお危険を冒す人」というのは「愚者」の代名詞です
その意見は尤もだ。しかし私は、それだけではあまりにも言葉が足りないと感じます
私は「フグを食べる」という決断は
「知っていてなお危険を冒す愚者の物語」とはちょっと違うと思うのだ


「フグを食べる」
それは生と死とがともに手をとりあって初めてたどり着ける場所なのだ
だからその光景はとてもまばゆく、私のこころに清々しい感動を呼び覚ます
これは「命が全てにさよならする可能性を引き受ける物語」なのである





あなたがひとたび命賭けでフグを食べるとき
あなたもまた「2番目の人々」へと加わることになる
これはフグに限った話ではないのだけれど
手近でわかりやすいところでは、フグであると思う


とりあえずフグを食べてみればわかります
大丈夫。たぶん安全です。「絶対」ではありません。「たぶん」なのです


安全というものは限りなく100%に近づくことはあっても、100%になることは決してない


あなたがフグを食べるとき、もしほんのわずかでもためらいを覚えるならば
そこには儀式の扉が開かれている
あとはあなたが真っ直ぐにそれをくぐる決断をするかどうかなのだ


「たぶん大丈夫」に己の全存在を委ねること
明日はもうやって来ないかもしれないけれど、それでいいと諦めること
その魂を締め付けられるような、泣きながら笑うような
ひどく切ない、それでいてどこか晴れ晴れとした決断を、引き受けるのが儀式なわけです


人がフグを食べる
逡巡、飛躍、生還
「……」、「えいっ」、「うまいっ」


そのとき、確かに人は死をくぐるのだ
いやー、まさに「鉄砲」です。むかしの人の言選りはさすがだ


そしてもちろん儀式には生還できない結末もあり得る
なんて素晴らしい。そうでなくては意味がない
だからこれは、越えられる者だけが越えられる試練なのだ


「フグのイニシエーション」
あるいは単に「人生」





世界には無数の儀式がある


シリンダーをからからと回して止める。自分のこめかみに銃口を当て、引き金を引くとき
手術の同意書にサインをする。白い病室の静寂にかりかりとボールペンの音が響くとき
パラシュートとGoProを付けて飛び降りる。不規則に揺れるヘリコプターから最後に左足が離れるとき
2枚の手札にあり金を突っ込む。積み重ねた全てのチップをぐっと前に押し出すとき
そして、フグを食べるとき


飛行機に乗るとき
船に乗るとき
列車に乗るとき
自動車に乗るとき
自転車に乗るとき
走るとき
歩くとき


家を出るとき
食事をするとき
運動をするとき
働くとき
遊ぶとき
家に帰るとき


目を開くとき
目覚めるとき
目を閉じるとき
眠るとき


息を吸うとき
息を吐くとき


その行動を選択したことで、次の一瞬に命が終わる可能性は、常に0ではない
安全というものは限りなく100%に近づくことはあっても、100%になることは決してない
だから「フグのイニシエーション」は、いつどこにでもある


もしかすると人は「安全じゃないのなら私はフグを食べない」と考えるかもしれない
しかしその選択をしたところで、次の一瞬に無事でいられる保証もまた、どこにもない


「フグを食べる」も「フグを食べない」も、等しく100%安全にはなり得ない
「生還の確率が最も高い行動を選択すること」と「実際に生還すること」とは、全く違う
だから「フグを食べない」決断さえも、「フグのイニシエーション」のひとつなのである


こうして人間のすべての振る舞いは
最終的に「そこに決断が伴うか伴わないか」のたった2種類に分けられる
「儀式を儀式としてやり遂げるか、適当にごまかすか」、すなわち「遂げるか、逃げるか」
人間はただそれだけを自分で選ぶことができるのだ


「次の一瞬に自分が全てにさよならする可能性を引き受けるか、引き受けないか」
世界には、これしかない





実際に儀式を儀式として受け入れ、やり遂げることができる人はとても少ない
飛躍できるときに飛躍できた人だけが「2番目の人々」への仲間入りをする


そして儀式をやり遂げたとしても、そこに留まっていられる人はなおいっそう少ない
一瞬一瞬に飛躍し続ける人だけが「2番目の人々」であり続ける
これはほんとうに難しい。ありがたいと言わざるを得ない


「えいっ」なわけですよ
「えいっ」、非常に忘れがちです


まあ儀式をやり遂げなかったからといって大したことにはならないので
忘れがちにもなろうというものです
知が豊かな現代では「フグのイニシエーション」などという胡乱な儀式を
やり遂げなくても実に全く問題がない


やらなくても問題がないというよりも
むしろ仰々しくやり遂げようという人物の方が問題なのかもしれない
だってフグを食べるときはいちいち「えいっ」とか考えてないで
安心して食べる方が健全じゃあありませんか


料理店で「死ぬかもしれない……」とかなんとか言いながら恐る恐るフグを食べる人なんて
「ひょっとして『ただの馬鹿』なのでは?」と笑って済まされて然るべきなのだ


そのような態度で儀式から逃げることは、まことに正しい
リスクは命に毒だ。そんな健康に悪そうな話、人間は直視するべきではない
「いまどきフグで死ぬわけないでしょ」が現代人の正しい態度ってもんですよ


「今日生きてるんだから明日も生きてるでしょ」
これが人の、正しい態度なのです


まさに「知」と呼ばれるものの存在理由は
そのようにして「人々を『えいっ』から遠ざけること」にある
ゆえに儀式に関わる言葉たちは必然的に「挑戦者」、「賭けに敗れ」、「犠牲」といった言選りになる


命をできるだけ大切にし、「えいっ」から可能な限り遠ざかること
これが人類が長い歴史をかけて築き上げた健やかな生の態度なのだ


「フグのイニシエーション」だなんて、なんと大げさで馬鹿げた考え方でしょうか
騙されてはいけません。大丈夫なのです。安心して何も考えずにフグを食べましょう
あんなのはひどい極論です。極論に惑わされてはいけません。フグは安全なのです


いまどきフグ食べて死ぬわけがないではありませんか
今日を何事もなく生きているあなたが、明日唐突に死ぬわけがないではありませんか
今こんなにも簡単にできている呼吸が、この次で急に止まるはずがないではありませんか


リスクは限りなく0に近いんですよ。なのにそれを10にも100にも膨らませて考えるから
連中は「フグのイニシエーション」などとおかしなことを言い出すのです
リスクは限りなく0に近いのだから、そんなものは0とみなしてしまえばよいのです
だからあなたがフグを食べるのに御大層な決断なんて少しもいらないのです
そのフグに危険なんてこれっぽっちもないのですから!





「フグは安全ではない」と「フグは安全だ」
「呼吸は安全ではない」と「呼吸は安全だ」
おかしなことを言っているのは、果たしてどちらなのだろう
儀式は問いかけている


私は「儀式からの逃避」は人類にとってまっとうな判断であると思う
「えいっ」はやらない方が安全だ。「えいっ」は勧めない方が人にやさしい


もとより「えいっ」について、人は真正面から戦いを挑むべきではない
「えいっ」は、最後の最後にはこちらが負けると決まっている勝負なのだ
だから健やかに生きるために、人は「えいっ」からできるだけ遠くに逃げるべきなのだ
「えいっ」を避け、「大丈夫」を唱えて、日々を安全に暮らす
それが賢明というものだ


そんなことは私もわかっております
でも私は「えいっ」がなんか好きなんですよ
フグを食べるときは「大丈夫」よりも「えいっ」の方がなんとなくしっくりくる
フグを食べないときも「大丈夫」よりも「えいっ」の方がなんとなくしっくりくる
だからこれは完全に私の趣味の話です


私は眠るときも「えいっ」でやっていきたい人なのだ
何なら呼吸も「えいっ」でいけるなんじゃないかと思っている
まあ呼吸で「えいっ」をやるのはほんとうに難しくて、ありがたいことなんだけれども


つい呼吸をしてしまうわけですよ
私は知っているのだけれど、なおも危険を冒そうとしてしまうのだ


危ないなあ。そんなことを知っているから危ないんだよ
そんなどうでもいいこと忘れてしまえば、ずっと安全でいられるのに
そんなどうでもいいこと忘れてしまうのが、人類の智慧ってものなのに


なんだかしらんが私は忘れたくないのだろう


「次のひと呼吸で私が全てにさよならする可能性は、いつだって0ではない」





今日もどこかで誰かが「えいっ」に挑む
もしも生還できたら、仲間たちの声が聞こえるはずです


「これはこれは。『2番目の人々』へようこそ!」

「霜が降りる」と「霜降り」
前者は「り」で、後者は「り」
私はなんとなくそういうのに反応してしまいます


「霜がりる」
「霜がる」
「霜り」
ここまでは自然言語に用例が見つかる


したがって欠けた「霜り」の存在が理論的に予言されるわけだけれども
この「霜り」だけが未だ自然界では観測されていない
ふしぎ


構造に非対称性がある。私はそういうのなんか好きです
構造というものは、シンメトリーであってもアシンメトリーであっても美しいのだ


どうでもよいことなのだけれど、"asymmetry"という記号列を読むときは
「エイシンメトリー」と発音したくなるのに
カタカナで記述するとなると「アシンメトリー」と書きたくなってしまうなあ
書いてたら気づいた
私はそういうのもなんか好きです。いいかげんはともだちだ





ささやかな予言を自分のちからで立てることができると
学問というやつが少し浮かばれるような気がします
ことがらを「予め言う」というのは、ものすごくすごいことなのだ。叡智である


ときに叡智は壮大な予言を可能にする
例えば「1万2千年後にはおりひめ星が北極星になる」というように
ものすごくすごいことだ。学問は人類をそういうきらきらと輝く記述に到達させる
だから叡智はいつも堂々としていて、栄光に満ちている


ただ、そういうすごさに対面すると、どこか供養のような心地を抱いてしまうのが私なんですよね
栄光にはせつなさがある。学問は素敵にせつない





スーパーを歩いていたら、いつかふと「霜り肉」が観測されるのかもしれない
あるいは、いつまでも観測されないのかもしれない
人が予言を記述できることには慰めがある。私の感覚はやっぱり供養だと思う


いったいなにが「やっぱり」なのか
詳らかにしようという気もないままに
私はただ予言をします


「あなたはいつか霜り和牛に遭遇する」


当たっても外れてもなんにもならない予言は良いなあ