スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2018の投稿を表示しています

カリカリに焼いたベーコン

先日の朝、私がカリカリに焼いたベーコンを食べたときのお話です


私はそのとき、カリカリに焼いたベーコンを食べていながら
カリカリに焼いたベーコンを食べていなかった
それによってまさに、初めて、私はカリカリに焼いたベーコンを食べることができた(ような気がした)


こんな風に書いてしまうから、わけがわからなくなるんだよな


「先日の朝、私はカリカリに焼いたベーコンを食べました」


事実の描写はこの1文で完璧なのに
実際、起きた出来事はそれだけです
言葉の使い方というのは、本来このくらいが丁度いい塩梅なのです
それなのに言語化できないことをわざわざ言語化しようとしたりするから
言葉が自身の限界を呈してしまう。わけのわからんことになる





「余計なものがなにもない」、そういう体験が在る


カリカリに焼いたベーコンを食べる前に「カリカリに焼いたベーコンを食べるぞ」とか考えたり
カリカリに焼いたベーコンを食べながら「カリカリに焼いたベーコンは美味しいなあ」とか考えたり
カリカリに焼いたベーコンを食べた後に「カリカリに焼いたベーコンを食べたなあ」とか考えたりする
それら全てがカリカリに焼いたベーコンから遠く遠く離れている
それら全てが、余計なものだ


カリカリに焼いたベーコンを食べるためには
カリカリに焼いたベーコンを食べてはいけない


カリカリに焼いたベーコンを食べるためには
カリカリに焼いたベーコンを食べてはいけない
と、考えてもいけない


カリカリに焼いたベーコンを食べずに、カリカリに焼いたベーコンを食べることができたとき
人はカリカリに焼いたベーコンを食べることができるのである
そういう体験は一生に何度もできるものではない
先日は、たまたまそれができた


まあ、それができたからといって、なんにもならない
そのなんにもならなさが、私はとても好きなのです





原理的に人間は「それ」を必ず取り逃がす
たまたま(本当にたまたま)「それ」を取り逃がさずに済んだとき
意識には過去形の「カリカリに焼いたベーコン」が残る
(もっとも、結局は取り逃がしている。だから「それ」は、いつだって過去形で現れる)


「未来」も「過去」も約束であって実在ではない
「現在」もまた、捉えられた瞬間に幻となる
「捉えた」と言ってしまったら取り逃がす仕組みになっているのだから上手い
よくできてるよなあと思う


残滓だけが言の葉になる
残り物には人生がある


「それ」を「真理」とか「悟り」とか呼んでしまうと
そういう話になってしまうのでめんどうですよね
だから私はどうしても言選りに慎重になります
人間はすぐ神秘主義する。よくないことだ
神秘は素晴らしい調味料だけれども、ベーコンには合わない


「神」、「仏」、「梵」、「道」、その他色々
こんなしょうもないことを説明するために招待したら
阿頼耶識もアストラル界も泣きますよ
言葉を変えたら言葉が変わってしまう
私はカリカリに焼いたベーコンを食べただけなのに


だから私は、「それ」を「カリカリに焼いたベーコン」と呼ぶのです
なかなか親しみやすくてよい呼称だと思います
誰がどう見ても、私はカリカリに焼いたベーコンを食べたのだし、そのときのそれが「それ」だ
わかることをわざわざわかんなくするから、わかんなくなるのだ





こうして、「それ」は「カリカリに焼いたベーコン」になり、なかなか親しみやすくなった
親しみやすくはなったけれど、「カリカリに焼いたベーコン」は、いやはや簡単な相手ではない
私は、私には「カリカリに焼いたベーコン」はもう2度とできないかもしれないと思っている
「カリカリに焼いたベーコン」は、自在の対極に居る
「カリカリに焼いたベーコン」は、望んで叶うものではない


ただ、「カリカリに焼いたベーコン」のほんとうによいところは別にある
「カリカリに焼いたベーコン」は、できなくても何も困らないのだ
「カリカリに焼いたベーコン」がもう2度とできないとして、果たして困ることがあるだろうか
いや、ない
ほんとにない


人はできないと困ると思っていることだけが、できないと困る
私は「カリカリに焼いたベーコン」から、そのことを教わった
そしてそれが、「カリカリに焼いたベーコン」のほんとうによいところだ


できないときは、できない
そのときは、そのとき


こんな風に書いてしまうから、わけがわからなくなるんだよな


言語化、それは駄目でもともと
わかることだけがわかるのだから


結局、言葉なんて「カリカリに焼いたベーコン」だけで充分なのです
ベーコンをカリカリに焼いて食べてみればわかるような話でもないけれど
ベーコンをカリカリに焼いて食べてみれば、わかる

月球

『地球はまるい』


重言ですよね。「球がまるい」などという話は
より適切な表現として「大地はまるい」と言うべきです
ただ、「それは私たちの世界観ではないよなあ」とも思う
なんというか、「大地はまるい」は、異国情緒がありすぎる
結局「地球はまるい」の方が、現代人に馴染む言葉なのだと思う


言選りこそ世界観なれ
人々がどのような言葉を使うかで、世界の全てが定まっている
皆が「大地は平らかだ」と言えば大地は平らかだし
皆が「大地はまるい」と言えば大地はまるい
この因果関係がとても重要なのです。決して逆ではない
「大地はまるい」と言われるまでは「大地は平らかだった」のであり
「大地はまるい」と言われて初めて「大地はまるくなった」のだ
つまり言葉は、地形をも創り変える程の大きな力を持っているのである


そして現在、「地」はどうやら「地球」になった
大地はまるいという世界観を現代人が概ね認めたからだ
しかし、「月」は「月球」になっていない
月のまるいことは現代人の能く認めるところだと思うんだけど
「月」は「月球」になり損ねたんじゃないかと
ここ数日、そのことが気になっている





言選りこそが世界観なのです
つまり、私たちは「月球」という世界観を拒絶しているわけです
「月球」は現代人にはどうにも馴染みがよろしくない
ということは、「月球」とは少なくとも今、この世界の言葉ではないのだ
だからその言葉は、どこか遠い異世界からやって来たように私たちに響く


だから言選りこそが世界観だと言うわけです
このことから私は、ある種の魔法の実在を認める結論にたどり着く
「私たちは言葉を唱えることで、世界そのものを書き換えることができる」のである
異世界からやって来た響きはそういう呪文の一種なのだ
積極的に使っていけば、異世界とこちら側を繋ぐことができる
というより、こちら側が異世界に「なる」


ある種の魔法に「詠唱」という手続きが必要なのはこのためだと思う
そのことは例えば、これからは「月」を「月球」と呼ぼうと決めてみればよくわかる
あなたの世界から「月」を手放すのだ
今すぐにでも、夜空を眺めて「月球が明るいなー」とか言ってみるのだ
(今宵はほぼほぼ新月でしかも私の居る地域は曇っていて月球など見えないわけだが
そんなことをいちいち気にしていては魔法など使えるわけがないので気にしてはいけない)
強引な実践が重要なのである。何でもいいからとにかく声に出してみるのだ
すると、たちまち世界の姿が書き換えられていく
あなたは最早現代人ではなくなる
ああ、そうだ。「あれは月球だ」
あなたは遠い場所、遠い時間の住人になる
魔法というやつは、そうやって使うものなのです


実際そういう魔法を長いこと積み重ねることで
人々はゆっくりと、大地をまるく書き換えてきたのである
だから理論上は大地を再び平らかな状態に戻すことも可能なのだ
もしあなたが一生「月」を「月球」と呼び続けたなら
あなたの周囲の人々は必ず強い魔法にかかるだろう


だから魔法使いが魔法を使うのではない。魔法を使う人が、魔法使いに「なる」のです
だから善い人が善い言葉を使うのではない。善い言葉を使う人が、善い人に「なる」のです
以下同様にして、人々がどのような言葉を使うかで、世界の全てが定まっている
この因果関係がとても重要なのです。決して逆ではない
私は、秘奥はたぶんその辺にあるんじゃないかと睨んでいる


さて、とかなんとか言ったものの実際に世界を書き換えるというのは極めて困難な話です
よって私は、ただ「世界を書き換えるという魔法」の使い方をここに記すに止めたいと思います
強い魔法は必ず術者に強い負担がかかります。無理はよくないよ無理は
異世界で故郷が恋しくなったら、「月球」を指さしながら元通り「あれは月だ」と唱えればよい
そうすれば簡単にこの魔法は解けます





私は地平線を眺めながら「どっちかっていうとむしろこっちが地球だよな」と言い
天に浮かぶ青い惑星を眺めながら「あれはむしろ海球だよな」と言う
月球の大地はとても空気が薄いので
私の言葉を、私だけが聞く