特に時期ではないんですが、まあ合わせる必要もないだろうということで
何となく本日はサンタクロースは果たしているのか、いないのかという話をします
結論から言うと、サンタクロースはいないことになっています
いるではなく、いないでもない
「いないことになっている」
そこに大変巧妙な仕掛けがある。と、思う
大人たちは「自分たちが子供にプレゼントを買う」という厳然たる事実を知っている
ときに「サンタさんに頼まれて」と優しい嘘をついたりもする
残念ながら彼らは決してサンタクロースからの依頼を受けてはいない。誰ひとりである
そのことを大人たちはよく知っている
嘘を交えずに答えるならば、大人たちは自らの経験の範疇において
サンタクロースは「いない」と答えざるを得ない
それで大人たちは「自分たちで買ってる」という揺るがぬ現実を
いかにして子供たちに言い訳するか、に苦心するんですが
実際のところこれが大問題のようでいて、全然問題ではないのです
それが、サンタクロースの用意した巧妙な仕掛けの入口です
「自分たちが子供にプレゼントを買っている」
と、大人たちは思っている
この「自分たちが」という前提が、誤解の始まりである
「自分たちが子供にプレゼントを買っている」という行為そのものがサンタクロースの御業ではないと
ほんとうは誰にも言えないのだ
ところが大人たちはそれを「完全に自分たちの意志と責任でやってる」と思い込んでいるので
なんとかして子供たちにそれを上手く説明しなければいけないと考えてしまうのだ
そこが大人たちの自己というものに対する過信で、その過信にサンタクロースは目をつけたのだ
大変巧妙な仕掛けがある
そもそも一晩で世界中を飛び回り子供たちにプレゼントを配るという伝説をもつ人だ
その力たるやどれほど非凡であることか
ふつうの大人がそれに太刀打ちできるはずもないのだが
大人は自分たちのことをそれなりの存在だと思っている
だから「そんな人間はいるはずがない」とか「自分たちがサンタクロースの振りをしよう」とか考える
「自分たちがサンタクロースの振りをしている」と考えてるので
あれこれ物語を足して、色々と感動的な言い訳を行う
自らが自らを制御しているという過信が「振りをしている」という誤認を生んでいる
本当に操られている人は、操られている自覚を持つことは決してないのだ
純然と「自らの意志でやっている」と思う。思わされる
「自分の意志でサンタクロースの振りをしている」と思わされているので、言い訳をするのだ
それは子供たちのための言い訳でもあるし、大人たち自身のための言い訳でもある
それら全てが、サンタクロースの仕掛けたシステムの中にあるのだ
だから実際は、何一つ言い訳をする必要はない
ないんだけれど、大人たちは言い訳をする。大変巧妙な仕掛けだ
大人たちがあれこれと言い訳を述べ、子供たちがそれを聞いてまたあれこれと考えるところまで含めて
全てがサンタクロースの仕掛けなのだ
遠い昔からサンタクロースは非凡であったが、最初はそれでもまあよかった
しかし時とともにちょっと非凡すぎることが人々に発覚し始め、存在が嘘くさくなってきてしまった
それでサンタクロースは、やり方を変えたのだろうと思う
表に出ると嘘くさいので、表に出てこなくなった
代わりにもっと現実的な方法で、自らの仕事を果たすことにした
ただそれだけのことだ
サンタクロースは真に仕事ができる人なのだ。そのやり方はほんとうにすごい
大いなる仕事を自分でやらずに他人にやらせて
そうして当人に、「何もかも自分たちでやりとげた」と思わせることにしたのだ
サンタクロース本人が直々にサンタクロースの仕事をしなくなったことは、最早全く問題にならない
「大人たちがサンタクロースの振りをして(ると思い込んで)
サンタクロースの仕事をするようになった」
これがほんとうに重要なことだ
そうさせているのは誰なのか。それこそがこの問題の答えなのだ
わかりきったことだ。到底人間の所業ではない
話の規模があまりにも大きすぎる
結局そんなことは、サンタクロースにしかできない
私は、世界を飛び回る(という伝説の)力の使い方を
人を操る方向にシフトしたんじゃないかと予想している
(多分実際はそんな単純な話ではなく、もっとすごいことをしてるんだろうと思う)
だからサンタクロースがいるのか、いないのかという議論を行うこと自体
既にサンタクロースの掌の上なのです
そういう話になった時点で、それがサンタクロースの存在と力の、明白な証明になる
とてつもなく強大な力がはたらいている。サンタクロースとはそういう存在である
サンタさんはいるとかいないとか、子供の夢を壊すとか護るとか
そういう次元にサンタクロースはいない
サンタクロースはもっとずっと上のステージにいる
サンタはいないとかなんとか言ってる人がプレゼントを買っている
いようがいまいが、関係がないのだ
どっちにしろ人はその仕事を遂行している
サンタはいることにして
サンタはいないことにして
どちらにしろ人間は、サンタクロースの仕事をするのです
サンタがいることの証明はできない
サンタがいないことの証明もできない
どちらも人間にはできない仕掛けになっているのだ
いるもいないも証明できないので
人間はサンタがいることにしたり、いないことにしたりする
いることにするのと、いないことにするのは結局のところ同じだ
言い訳をするか、言い訳をしないか。本当の違いが生まれるのは、そこだけだ
全てそうなるように仕掛けてあるのだ
わざと事態をごちゃごちゃさせて人々の目を眩ませ
ただひとつ「人が人にプレゼントを与える」という行為
それだけが厳然たる事実として存在し、脈々と受け継がれていく仕組みになっている
そしてその活動こそ、絶える気配が全くないのである
強大な力がなければそんなすごいシステムは維持できない
強大な存在がそれを支えている。それは何者だろうか
そんなことができるのはひとりしかいない
いや、ほんとうにおそろしい話ですよ
私はあまり近づきたくない
サンタクロースはいるのでなく、いないのでもない
「いないことになっている」
他ならぬサンタクロースがそうさせている
流石としか言いようがない
最近の私は流石とかすごいとかばっかだな
すぐ語り得ぬ領域に突入しそうになる
まあでも当のサンタクロースがそういう場所にいるようなので仕方ない
すごいものは、すごい
よくできているものは、よくできている
言葉にすると、言葉になってしまうのだ
完全に掌の上だ
完全に掌の上なので、人はその身を委ねることしかできない
私はただただ、おそれを抱いている
畏敬とはそういう存在のためにあるのだ
かしこまらなければならぬ
サンタクロースは、果たしているのかいないのか
サンタクロースは、いないことになっているんですよ
そんなわけで「サンタさんはいるの」と誰かに訊かれたら
私は「いないことになっているねえ」と答えるのでした
何となく本日はサンタクロースは果たしているのか、いないのかという話をします
結論から言うと、サンタクロースはいないことになっています
いるではなく、いないでもない
「いないことになっている」
そこに大変巧妙な仕掛けがある。と、思う
大人たちは「自分たちが子供にプレゼントを買う」という厳然たる事実を知っている
ときに「サンタさんに頼まれて」と優しい嘘をついたりもする
残念ながら彼らは決してサンタクロースからの依頼を受けてはいない。誰ひとりである
そのことを大人たちはよく知っている
嘘を交えずに答えるならば、大人たちは自らの経験の範疇において
サンタクロースは「いない」と答えざるを得ない
それで大人たちは「自分たちで買ってる」という揺るがぬ現実を
いかにして子供たちに言い訳するか、に苦心するんですが
実際のところこれが大問題のようでいて、全然問題ではないのです
それが、サンタクロースの用意した巧妙な仕掛けの入口です
「自分たちが子供にプレゼントを買っている」
と、大人たちは思っている
この「自分たちが」という前提が、誤解の始まりである
「自分たちが子供にプレゼントを買っている」という行為そのものがサンタクロースの御業ではないと
ほんとうは誰にも言えないのだ
ところが大人たちはそれを「完全に自分たちの意志と責任でやってる」と思い込んでいるので
なんとかして子供たちにそれを上手く説明しなければいけないと考えてしまうのだ
そこが大人たちの自己というものに対する過信で、その過信にサンタクロースは目をつけたのだ
大変巧妙な仕掛けがある
そもそも一晩で世界中を飛び回り子供たちにプレゼントを配るという伝説をもつ人だ
その力たるやどれほど非凡であることか
ふつうの大人がそれに太刀打ちできるはずもないのだが
大人は自分たちのことをそれなりの存在だと思っている
だから「そんな人間はいるはずがない」とか「自分たちがサンタクロースの振りをしよう」とか考える
「自分たちがサンタクロースの振りをしている」と考えてるので
あれこれ物語を足して、色々と感動的な言い訳を行う
自らが自らを制御しているという過信が「振りをしている」という誤認を生んでいる
本当に操られている人は、操られている自覚を持つことは決してないのだ
純然と「自らの意志でやっている」と思う。思わされる
「自分の意志でサンタクロースの振りをしている」と思わされているので、言い訳をするのだ
それは子供たちのための言い訳でもあるし、大人たち自身のための言い訳でもある
それら全てが、サンタクロースの仕掛けたシステムの中にあるのだ
だから実際は、何一つ言い訳をする必要はない
ないんだけれど、大人たちは言い訳をする。大変巧妙な仕掛けだ
大人たちがあれこれと言い訳を述べ、子供たちがそれを聞いてまたあれこれと考えるところまで含めて
全てがサンタクロースの仕掛けなのだ
遠い昔からサンタクロースは非凡であったが、最初はそれでもまあよかった
しかし時とともにちょっと非凡すぎることが人々に発覚し始め、存在が嘘くさくなってきてしまった
それでサンタクロースは、やり方を変えたのだろうと思う
表に出ると嘘くさいので、表に出てこなくなった
代わりにもっと現実的な方法で、自らの仕事を果たすことにした
ただそれだけのことだ
サンタクロースは真に仕事ができる人なのだ。そのやり方はほんとうにすごい
大いなる仕事を自分でやらずに他人にやらせて
そうして当人に、「何もかも自分たちでやりとげた」と思わせることにしたのだ
サンタクロース本人が直々にサンタクロースの仕事をしなくなったことは、最早全く問題にならない
「大人たちがサンタクロースの振りをして(ると思い込んで)
サンタクロースの仕事をするようになった」
これがほんとうに重要なことだ
そうさせているのは誰なのか。それこそがこの問題の答えなのだ
わかりきったことだ。到底人間の所業ではない
話の規模があまりにも大きすぎる
結局そんなことは、サンタクロースにしかできない
私は、世界を飛び回る(という伝説の)力の使い方を
人を操る方向にシフトしたんじゃないかと予想している
(多分実際はそんな単純な話ではなく、もっとすごいことをしてるんだろうと思う)
だからサンタクロースがいるのか、いないのかという議論を行うこと自体
既にサンタクロースの掌の上なのです
そういう話になった時点で、それがサンタクロースの存在と力の、明白な証明になる
とてつもなく強大な力がはたらいている。サンタクロースとはそういう存在である
サンタさんはいるとかいないとか、子供の夢を壊すとか護るとか
そういう次元にサンタクロースはいない
サンタクロースはもっとずっと上のステージにいる
サンタはいないとかなんとか言ってる人がプレゼントを買っている
いようがいまいが、関係がないのだ
どっちにしろ人はその仕事を遂行している
サンタはいることにして
サンタはいないことにして
どちらにしろ人間は、サンタクロースの仕事をするのです
サンタがいることの証明はできない
サンタがいないことの証明もできない
どちらも人間にはできない仕掛けになっているのだ
いるもいないも証明できないので
人間はサンタがいることにしたり、いないことにしたりする
いることにするのと、いないことにするのは結局のところ同じだ
言い訳をするか、言い訳をしないか。本当の違いが生まれるのは、そこだけだ
全てそうなるように仕掛けてあるのだ
わざと事態をごちゃごちゃさせて人々の目を眩ませ
ただひとつ「人が人にプレゼントを与える」という行為
それだけが厳然たる事実として存在し、脈々と受け継がれていく仕組みになっている
そしてその活動こそ、絶える気配が全くないのである
強大な力がなければそんなすごいシステムは維持できない
強大な存在がそれを支えている。それは何者だろうか
そんなことができるのはひとりしかいない
いや、ほんとうにおそろしい話ですよ
私はあまり近づきたくない
サンタクロースはいるのでなく、いないのでもない
「いないことになっている」
他ならぬサンタクロースがそうさせている
流石としか言いようがない
最近の私は流石とかすごいとかばっかだな
すぐ語り得ぬ領域に突入しそうになる
まあでも当のサンタクロースがそういう場所にいるようなので仕方ない
すごいものは、すごい
よくできているものは、よくできている
言葉にすると、言葉になってしまうのだ
完全に掌の上だ
完全に掌の上なので、人はその身を委ねることしかできない
私はただただ、おそれを抱いている
畏敬とはそういう存在のためにあるのだ
かしこまらなければならぬ
サンタクロースは、果たしているのかいないのか
サンタクロースは、いないことになっているんですよ
そんなわけで「サンタさんはいるの」と誰かに訊かれたら
私は「いないことになっているねえ」と答えるのでした