嗅覚だけに集中して街を歩いてみると、とてもおもしろい
どうやら思っていた以上に香りというものは目まぐるしく変わっているようだ。
秒単位で風景が変わっているから当たり前なのだが、秒単位で香りも変わっている。
これまで歩いているときに視覚と聴覚は無意識に使っていたが、
嗅覚はあまり機能させてこなかったことに気付き、
大変な情報量を見落としていたと思った(嗅ぎ落としていた、と言うべきなのだろうか)
それで嗅覚以外の五感をぼんやりさせながら、街を歩いた。
何かの香りを感じたら五感を元に戻してその正体を確かめてみると、
風景の中に対応するものが見つかる。
植物の香りが増えたなと思って意識を目に戻すと、公園が目に入ったりとか、
急にシナモンの香りがすると思ったら、近くにベーカリーがあったりとかする。
大抵のものは香るべくして香っているのだな
そういうことを続けていると、たまに正体不明の香りに出会うことがある。
そういう出会いがおもしろい
風に乗って一瞬とても親しみのある香りがした。
絶対にどこかで嗅いだことがあると感じたのだが、
周囲を見渡しても発しているものの正体がわからない。
気になってしばらく考えていたら、遠い記憶の中に手がかりを見つけた。
それはでんぷん糊の香りだった
わかったけどわからなかった。
なぜ街中ででんぷん糊の香りがしたのだろうか。
不思議に思って家に帰ってから調べてみたところ、
でんぷん糊は香料として金木犀が使われているものがある、ということがわかった
金木犀
あれは金木犀の香りだったのか。
知らなかった。
ということは金木犀がどこかに生えていたということか。
秋か
「でんぷん糊は金木犀の香り」
へー
……へー?
どうやら金木犀が先ででんぷん糊が後だったということらしい。
しかし、私にとっては、でんぷん糊が先で金木犀が後なのである。
でんぷん糊の方が、記憶のずっと深いところに住みついてしまっている。
あの香りの名前として、ずいぶん昔からでんぷん糊が登録されているのだ。
それが今になって唐突に金木犀へと書き換えられる運びとなった
いや、理屈はわかりますよ。
しかしイメージの上書きがどうにも上手くいかないのです。
うーん、どう考えてもあれはでんぷん糊なんだよな。
香りの正体が完全に判明した今もなお、私にはあの香りはでんぷん糊のものだったと思えてならない。
「金木犀がどこかに生えていたのだ」という説明を、頭では理解できても、心では理解できないのだ
それで「あれは金木犀の香り」と何度自分に言い聞かせても上手く行かないので、諦めた。
やっぱりあの香りの正体は金木犀じゃないよ。でんぷん糊です
だから「金木犀がどこかに生えていた」という説明がそもそも間違っているのだ。
それなら「でんぷん糊の木がどこかに生えていた」という説明が正しいということになる。
あの香りの正体は金木犀ではなくでんぷん糊なのだから、それはそうなる
街路樹にでんぷん糊がよく実っている。
でんぷん糊の微かに甘く淡い香りが空間を満たして、
チューブ型の実はゆらゆらと、短冊のように風になびいている。
道端には枝から落ちたチューブが点々と転がっているので、
ひとつ拾って蓋を開け、指先にちょんと付けて嗅ぐ。
淡かった香りが一瞬ぐっと強くなって、鼻から頭の上へ抜けていく。
それで私はひとつ深呼吸をして、
「あー秋が来たなあ」と、しみじみ思うのだ