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陽炎

今日の昼は天気がよく、アスファルトに陽炎がゆらめいていた


あのアスファルトの陽炎って、どう見ても水面ですよね
水溜りの如く、風景をよく反射している
しかし「陽炎」は、そこに「炎」という字を当てている
そういう言選りはぐっときます


陽炎、古くは「かぎろひ」でやはり「火」のイメージだったようだ
万葉集の時代からそんな感じなので、そうとうに昔からその態度である
「水をあらわす火」、矛盾感がよい





よい言葉だなあと思ってその後も陽炎についていろいろ調べた
すると当初の想定と異なり
陽炎は「水面っぽい部分」の名称ではないらしいということが判明してしまった


「陽炎」は「アスファルト直上より更に上部の空気が歪んでゆらゆらしてる部分」だけを指すらしく
「アスファルト直上の水面のように風景を反射してる部分」は「逃げ水」と呼ぶのだそうだ
あー、そうなのか
あー


確かに上側の空気がゆらゆらしてる部分は「火」ですね。あれは火です
そして「水をあらわす部分」はやっぱり「水」でしたね。あれは水です
正しい言選り。まことに正しい
正しさというものは、いつも少し寂しい





「陽炎」を「水面のやつ」だと思っていたのは誤解だった
残念である。よい誤解だったと思う


「よい誤解」とは、誤解と知っても反省せずに誤解したままにしておきたくなる誤解のことである
誤解が解けたとき、上書きされた知識よりも、もとの誤解の方が良かったと思うことがある
例えば「いや、やっぱり『陽炎』を『水面のやつ』に使う方が素敵なのでは?」と思った場合
(それを誤りと重々承知しつつも)懲りずに「陽炎」を「水面のやつ」に使い続ける
そのような誤解が「よい誤解」である


「陽炎」は間違いなく「よい誤解」であったと思う。しかし、今回は珍しいことが起きた
「陽炎」を上書きした「逃げ水」が「陽炎」に匹敵しているのだ
水が「逃げる」というのもまた、ぐっとくる言選りだと思う
「近づけば遠ざかる」、矛盾感がよい


「逃げ水」という語は、散木奇歌集(平安後期)には既にあったらしい
これもそうとうに古い。「陽炎」と甲乙つけがたい
よい言葉がよい言葉に挑んでいる。ありがたいことだ
どちらの言葉をいかに使うべきか、たいへん悩ましい
昔の人たちは陽炎と逃げ水の区別しっかりしてたんだろうか
それとも曖昧に使ってたんだろうか





まあ、曖昧でよいんじゃなかろかと思う
現代の陽炎は曖昧感あるので、それでよし
見逃すべきところは見逃さねば
よいところも失われてしまう


そもそもアスファルト無いのだ。昔は