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6月, 2018の投稿を表示しています

レジ袋の文様

今日、近所のスーパーで買い物をしてレジ袋を貰った
帰宅してそれを片付けていると、妙に指にひっかかる感触があることに気が付いた
袋をよく見てみると、ビニールの表面に細かい粒状の押出加工(エンボス加工)が施されていた
それが他の滑らかなビニール袋にはないざらりとした手触りを生み出していたのであった
更に調べてみたところ、どうやら手触り以外にも
他の袋とくっつきにくくなる効果があるらしいとわかった
なるほどなあ、と思った


うーん、エンボス加工、確かに在ります
一度気付いてしまうとなぜ今まで気付かなかったのかと思うくらい、ありありとそれはそこに在る
どちらかというと、それがそこに在りながら、これまで全く気付かずに過ごしてきたこと
その不覚に驚いた


例えば体に小さな傷があると気付いた途端
今まで何の痛みもなかったのに、急にそこに痛みを感じ始めることがある
それに気が付くまで、そんな傷はまるで存在していなかったかのように


そのようにして、認識が存在の契機となる
だから同様に、私が気付くまで、世界にレジ袋のエンボス加工は存在しなかった
もちろんそれは私の認識する世界にとっての話である
それとは一切関係なく、袋自体は以前からずっとその形で存在していた
エンボス加工はずっとそこにあった。しかしそれは、私にとっては存在していなかったのだ


たいへんなことだ
私は私の思い込みから、世界を勝手に創り上げている
そして私は実際の世界ではなく、想像の世界の方を優先して見るのである
現に私は私の思い込みだけで、今日までスーパーのレジ袋をずっと滑らかなものと認識していたのだ
(実際には何度もざらざらとした「それ」に触れて過ごしていたというのに!)


いやー、気を散らすというのはおそろしいことです
頭の中の世界に生きていると、外に在る世界のことがほんとうに見えなくなる
ビニール袋も並べて滑らかなどと勝手に先行して判断してしまう
事実に直に触れていながら、事実をまるで認識できなくなるのだ
「見もしない」のではない。「見ているのに見えていない」のだ。これはたいへんだ
習慣で見ている。予断で見ている。つまり、何も見ていない


ちゃんと生きてませんね
ちゃんと生きてないと、まあそういうことになります
あかんなあ。ちゃんと生きないとなあ
いやー、全然ざらざらしてますよ
全然ざらざらしてるぞこの袋は。どこが滑らかなんだ
私よ、目を覚ませ。しっかりしてくれ


そういうわけで反省した
反省してエンボス加工をちゃんと見たところ、袋の種類によってその意匠に違いがあることもわかった
大きい袋は一様に点が並んだ無機質な構造をしていたが
小袋の方は押出で綺麗な七宝文様が施されていた
なんでそんなデザインになっているのかはわからないけれど
とにかくそうなっていることは確認できた


「とにかくそうなっている」、これがちゃんと見えていることが、大切だと思う
予断というのは要するに理屈だ。それは「とにかくそうなっている」にとても弱い
しかし実際の世界は、常に「とにかくそうなっている」をこちらに展開してくる
在るものを在ると認められて、無いものを無いと認められる。それで十全なのです





レジ袋に、七宝文様は、在る
そこには、なんでもない空き地の土の中に、古代の器の欠片が見つかるような
あるいは、なんでもない砂利道の石の中に、月から来た隕石が見つかるような
そういう嬉しさを希釈した感じの嬉しさがあります


ただのレジ袋だ。その「ただの」が、まさに予断だ
世界をちゃんと見ることができていれば
なんでもないレジ袋に、七宝文様が見つかることもある
そういうのが見つかるのは、なかなか嬉しい


「見つかる」という言い方もちょっと違う気がする
文様は初めから、少しも隠れてなどいないのだから
私が勝手に見つからなくしている。私が見てないだけだ
そして私が見なければ、レジ袋はずっと滑らかなまま、終わる


もしも在るものを在るままに見ることができれば、ちゃんと在る。なんとすばらしい
ものが見えていればものは見えるし、ものが見えていないとものは見えない
七宝文様を眺めていると、よーし、だいぶものが見えているぞ、という気になる
ちゃんと生きてる感がある