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2月, 2018の投稿を表示しています

三味一体

「甘い」とか「酸っぱい」とか「苦い」とか、味覚にはいろいろと形容の言葉がありますね
本日はそのことについて考えておりました


味覚を形容する言葉は「不味い」と「美味しい」を原理とする二元論で捉えられると思う
それが全ての源泉となる一対の陰と陽であると考えてみる
宇宙の全体が「不味い」と「美味しい」でできているならば
「甘い」や「酸っぱい」といった言葉は部分的な構成要素を司る
不味と美味の陰陽を宇宙の根本原理に据えたとき
甘酸塩苦旨の基本五味には、どこか木火土金水の五行的な雰囲気が漂う
味覚は、陰陽五行説の世界観になる


陰陽五行説というのはまあ気のせいかもしれないけれど
部分的な味覚の組み合わせが全体を構成し、調和することで
「不味い」や「美味しい」からなる宇宙を構成している
という考え方自体はそんなに間違ってないと思う


「部分」と「全体」
この宇宙観において、ひとつ気にかかることがある
それは五行のうち最も新しい「旨」なる味、「うま味」の存在だ
この「うま味」こそが、本日の主役である





近年、「うま味」は発見された
私には、何か直観的な違和感があった
新たな味覚の発見、それ自体は喜ばしいことだと思う
「うま味」を司る物質が存在し、その受容体が人の感覚器官に備わっているのも確かである
しかし「その味覚を『うま味』と名付けてしまったこと」
その点に名状しがたい引っかかりがあった


「旨」を除いて、「甘」「酸」「塩」「苦」の四味は、陰陽から独立している
「甘い」や「酸っぱい」という表現が、直接「不味い」や「美味しい」を意味することはない
それらはあくまで構成要素なのであって
それらが互いにバランスすることで「不味い」や「美味しい」が形作られる
部分と全体はしっかりと弁別が保たれていたのだ
だから「うま味」がまだ誰にも知られていなかった時代、そこには完璧なひとつの宇宙の姿があった


しかし「うま味」は明らかに他と趣を異にしている
自らをして「美味い」を名乗っているのだ
それは既存の言葉とは、あまりに一線を画している
それは部分と全体の同化を予感させる
それは宇宙の崩壊を暗示している


「うま味」という名をひっさげて
「うま味」はこれまでの世界観に真正面から挑戦を仕掛けているのだ
驚くべき言選りだと思う


「うま味」がどれほど驚くべき言選りであるかは
次のような例を考えてみればよくわかる


「料理に砂糖を加えると『甘い』になるが、更に大量の砂糖を加えると『甘すぎる』になる」
「料理に塩を加えると『塩辛い』になるが、更に大量の塩を加えると『塩辛すぎる』になる」
以上のような論理に疑問の余地はないだろう。「酸っぱい」にも「苦い」にも、同様のことが成り立つ
したがって私たちは、次のような帰結を得る


「料理に味の素を加えると『うまい』になるが、更に大量の味の素を加えると『うますぎる』になる」


そこに疑問の余地があってはならない
ゆえに私は戦慄を覚えている
「うま味」という言葉がいかに既存の世界観を超えているかがほんとうによくわかる
言霊は今、宇宙をその支配下においたのだ。部分は全体を凌駕しようとしている
全ては「うま味」というその名に起因して


果たしてうま味は「うま味」でよかったのだろうか、そう顧みざるを得ない
しかし他にどうすればよかったのかと考えてみると、それもまた難しい話ではある
私は「香味」とか「効味」とかにしておけば、まだ影響は抑えられたのではないかと思う
それらが最善であるとは決して言わないが、「うま味」はあまりにも危うい


「うま味」を名乗ってしまった以上うまくないはずがない
うまくないはずがなければならない





「料理に味の素を加えると『うまい』になるが、更に大量の味の素を加えると『うますぎる』になる」


私は理論を述べた。だがその実証は行っていない
その意味で私の「うま味」に対する危機感は空論に過ぎないが、それで良いと思っている
幸いにして、私はこれまで料理に味の素を入れすぎたことがない
偶々、真実を謎のままに保つことができていたのだ


真実を明らかにしてはならないと思う
例えば一人前の炒め物に味の素を1kgくらい入れてみたとして
果たしてそれはほんとうに「うますぎる」になるのだろうか
もしそうなるとしたら、いよいよおそろしい結末を迎えることになる
それは「うま味」と「美味」が同一であることを証明してしまうのだ
もしそうならないとしたら、いよいよおそろしい結末を迎えることになる
それは「うま味」と「不味」が同一であることを証明してしまうのだ


いずれにせよ同じ結末を迎えることになる
審判の時を経てしまったら、後は終末が訪れるのみである
そこでは「うまい」も「美味しい」も「不味い」も一体となるのだ
人々はもはや「味がある」としか言わなくなるだろう


だから「うま味」の真実を明らかにするのは禁忌なのだ
どんな形であれその結果を観測することは、宇宙の崩壊に繋がる
私にはそんなあぶない真似はできない





ああ、どうか憐れみたまえ


汝、味の素を入れすぎることなかれ

王妃のわがまま

マラソンの42.195kmという距離規定がとても好きです


と、それだけでは全く話が伝わらないので
本日は「王妃のわがまま」というお話をしようと思います





42.195km


何とまあ半端で不合理な距離だ
この何とまあ半端で不合理な距離のきまりごとには有名な逸話があって
「1908年ロンドン五輪、時の王妃が競技の様子を最も良い姿でご覧になれるようにと
半端な距離が設定されてしまった」という逸話だ
人の世界にはこういう逸話を伴って、一見すると滅茶苦茶なきまりごとがとてもたくさんある
私はそういう不合理なきまりごとに出会うのが好きなのです
そういうきまりごとを総称して「王妃のわがまま」と呼んでいる


42.195kmについては、逸話の真偽は定かではない
王妃が自らの意志で定められたことなのか、周囲の平民たちが王妃のことを気遣って勝手に定めたのか
そもそもそんな事実は一切無くて、後になってから創作された話なのか
真相はわからないが、わからなくて良いと思う
王妃のわがままはもともと不合理なので、そこでは真実なんてちっとも重要ではない
「王妃のわがまま」は鮮やかに、不合理なきまりごとをどこか崇高な場所へと昇華させてしまうのだ


「逸話が存在している」こと、それが大切だと思うわけです
「不合理なきまりごとがあり、その隣には王妃がおわす」
それはほんとうに尊いことです


今日では「計測時の誤りをできるだけ防ぐために、細かい数字を設定している」という
なんだか心許ない理由付けが行われるらしい
いかにもそれらしい理屈ではあるが、そんな逸話では絶対値を「42.195」に定めるにはとても足りない
並一通りの合理性では麗しき王妃の魅力には決して敵わない
正論だけでは、王妃のわがままとは戦えないのだ
42.195kmを42.195kmたらしめるには、かの素晴らしい逸話を語り伝えてゆくしかない
それが事実であるかどうかは一切関係なく、ただ王妃の御力に頼るしかないのだ





人の世界は人が動かしているので、ほんとうに不合理なきまりごとがいっぱいある
しかし、何か不合理な法が蔓延していて、それに不満を感じている人たちが居るとき
大抵の場合そこに欠けているのは合理性ではない
合理性など王妃にとってものの数ではないからだ
欠けているのは、平民たちの王妃に対する帰属意識だ


人の世界はほんとに王妃のわがままだらけなのです
42.195kmってなんだよ。どうかしている。狂気の沙汰だ
もう完全にこれは王妃のせいなのである


化学の世界では、原子の電子殻と呼ばれる構造はK殻から始まって
外側に向かってL殻、M殻……と続く
そのように法が定められているわけだが
アルファベット順ならA殻から始まるのが道理なのに、なぜかKから始まる
そこには


「法が定められた当時はもっと内側になんかあると思って、とりあえずKにした」


という逸話があるのだ
どうやら内側には何もなさそうだということが判明した時点でKをAに修正すればよかったのだが
一度王妃のわがままが通ると平民たちにはその法が染み付いてしまい
滅多なことでは後代の修正は効かなくなる
まったくもって王妃のわがままは王妃のわがままなのである
平民たちは「Kから始めるのじゃ」という王妃のわがままを聞き入れ
そうやって法を定めてしまったのだ
(あるいは平民たちが「Kから始めましょう」と王妃に進言して
王妃がそれを気に入られたのかもしれない
どちらにせよ、とにかくそれは完全に王妃のわがままなのである)


私は「電流はプラスからマイナスの方向に向かって流れる」という法を知ってから
実際の物質中では「マイナスの電子が電流と逆方向の運動をしている」という法を知ったとき
御尊顔も存じ上げぬ王妃に対する畏れを抱かずには居られなかった
それは何度聞いてもよくわからないきまりごとなのだ
なんという不合理かと、それはそれは驚いたものだった


しかしそこには必ず逸話がある。だから何一つ問題なんてないのです
そこには尊い王妃がいらっしゃるのだ。ただ安心してその御方を戴けば良い
かように奇天烈なきまりごとを成立させてしまう、王妃の御力のほんとうに畏れ多いことよ


もう具体的な例なんていくらでも出てくる
足し算は「+」で、足し算を繰り返したものが掛け算だ
掛け算は「×」で、掛け算を繰り返したものが冪乗だ
ここからが本番だ
冪乗は「↑」で、冪乗を繰り返したものがテトレーションだ
テトレーションは「↑↑」で、テトレーションを繰り返したものがペンテーションだ
ペンテーションは「↑↑↑」で、以降「↑↑↑↑」、「↑↑↑↑↑」、……と続いていく
なぜ足し算の段階から「↑」で始めることになっていないのだろうのか
最初からずっと、矢印の数をただひとつずつ増やしていけば良かったのに
それは最初に「+」という法を定められたのはどなたかということを、考えてみればすぐにわかる
そのとき、そこには、王妃がいらっしゃった





合理性こそ是とされる自然科学や数学の世界でさえそんな有様なのだ
いわんやなんやかんやをや。王妃はそれはもう我々の身近なところにしょっちゅうお出ましになる
というか王妃はお転婆であらせられるのかもしれない
王妃はしばしば居城を抜け出しているらしく
スターバックス・コーヒーでなんとかフラペチーノを飲んでいたりすることで知られている
その御方の逸話は枚挙にいとまがない。錚々たるものだ
私はそのうちのいくつかを知っている


王妃は1日は24時間ではないのに、1日を24時間と定められた
平民たちは慌ててうるう年を用意し、盛大にそれを祝った
なぜグリニッジ天文台が人の世界の時間の基準と定められているのか
もちろん王妃がそうおっしゃったためだ
平民たちは急いで世界地図に日付変更線を引いて、盛大にそれを祝った


王妃は信号機を3色にして、キーボードをQWERTY配列にして、時計を時計回りにした
水は100℃で沸騰するとした。10℃ではないし、1000℃でもない。まったくもっておかしな話だ
黄色い線の内側まで下がり、お酒は20歳になってから
なにしろ王妃は言葉にまで法を定めてしまったのだ
だから平民たちはみな法に基づいて物事を考えているし、法の下に、更に多くの法が定められていく
そうしてついに、マラソンと言えば、42.195kmになったのである


いやー42.195kmですよ
私はそこにどんな道理があるのか未だによくわかっていないままだが
王妃がそのように定められたのだから何も心配する必要などないのだろう
とにかく皆が盛大にそれらを称え、祝った
そこには、たくさんの素晴らしい逸話があった





私は王妃を心から尊敬している
中には暴君を語る逸話もあるだろうが、それは王妃を直接否定するものではない
「王妃のわがまま」は「わがままな王妃」とは全然違うのだ
私は「王妃のわがまま」と呼んではいるけれど
平民たちが王妃の御身を気遣って勝手に定めた法も多いのである
人の世界はそんなに単純ではなくて
「鍋に入れて放っておくと、良い出汁が出るのよ」
と、王妃はかつて、笑ってそのようなことをおっしゃっていた
だから私はそんな王妃を尊敬している


そんな風に私は王妃を尊敬しているが、それはまあ私個人の話で
一般に平民たちというのは2種類に分かれる
王妃を戴き、不合理な法を受け入れるものたちと
王妃を認めず、不合理な法を受け入れないものたちだ
法を受け入れないものたちは、王妃の下を離れなければならない


人の世界に、王妃は何もひとりだけではない
ある王妃をどうしても受け入れることができない場合は、どなたか別の王妃に仕えればよい
しかし人の世界に暮らしている限り、誰にも仕えないという選択肢は無い
人の世界で、王妃が存在しない場所というのは、どこにも存在しないのだ


この国には元号というシステムがあり、そこにはやっぱり王妃がいらっしゃる
元号は上手に扱うのが大変だ。どう考えても不合理なシステムなのだ
しかし何でこんな不合理なものを使い続けるのかと不満を抱いて王妃の下を離れたとして
例えば全てを西暦に統一することは、ちっとも事態の解決にはならない
元号と同様に、西暦もまた、何一つ合理性など持ってはいないきまりごとだからだ


だからそこにはふたりの王妃がいらっしゃる
元号には、それはもう由緒あるひとりの王妃の逸話がある
西暦には、それはもう偉大なるひとりの王妃の逸話がある
平民たちにとっては、どちらの王妃にお仕えし、どちらの逸話をより好むか、という話でしかない


結局平民たちに問われるのは正しさではなく、帰属意識ということになる
仕える王妃はいったいどなたかという、それだけの話だ
平民たちを支えているのは他ならぬ王妃の存在であり
王妃の存在を支えているのは他ならぬ平民たちである
決して切り離せるものではない


法だから重んじるのであり、王妃だから戴く
重んじられるから法なのであり、戴かれるから王妃である
王妃の下を離れるのは良いが、その際には丁寧な別れの御挨拶を申し上げることを忘れてはならない
あの御方たちが御乱心されると、それはもうほんとうに大変なことになる


なんなら両方に仕えてしまっても良い
この国の年号は、今のところそういうきまりごとになっている
おかげでここにはすごい逸話がふたつもある
平民たちは祝宴を日に2回も催すことが許されているのだ(それは素晴らしい!)


王妃が平民たちを愛し、平民たちが王妃を愛していれば
不合理が不合理としてそこに認められることは決してない
麗しい王妃がそこに居て、素晴らしい逸話がそこにあれば
凡百の合理性など、王妃のわがままに何一つ太刀打ちできない


王妃がひとこと「ごきげんよう」とおっしゃれば、それでたちまちあらゆる事が治まる
「王妃」の「わがまま」に人の世界が動いているから「王妃のわがまま」なのだ
不合理であればあるほど、その逸話は輝いている


不合理なきまりごとに合理的に対処しようというのが、そもそも合理的でないのです
王妃に謁見するというのに、異なる作法でもてなそうとしている。それではあまりに無礼です
相手は大変高貴な方なので、きちんと正装をして、かしこまる必要がある





やっぱり逸話が重要だなあと思う
魅力的な王妃のわがままには、魅力的な逸話が必ずある


人の世界にはまことに数多くの王妃がいらっしゃって
人の世界の、どんなに小さな組織の、どんなに小さなきまりごとの中にも、王妃の御姿があるのです
そこには必ず、何か逸話があるはずです


不合理なきまりごとに出会うのは楽しい
未知のきまりごとからは、未知の逸話を教えてもらうことができる
どうしても逸話が見つからないときは、適当に考えてそれを創ってしまうのもよい
お城にはどんなに素敵な王妃がいらっしゃるのかと、想いを馳せて綴ってみるのだ
それ以上の何かをするのは、畏れ多いことだ
私は平民である。逸話を語り継ぐのが私の仕事だ。自らの領分を超えてはならない





そういうわけで、私は暮らしの中でなにか不合理なきまりごとに出会うと
「王妃のわがままだなあ」と思ってしみじみします
それはそれで多少の問題があるような気はしていますが
私は謁見が許されるような身分でもないので、大人しく逸話を語っていようと思います


自ら謁見は望んでいなくても、たまたま遭遇してしまうということはあるのかもしれない
スタバでなんとかフラペチーノを飲んでいる高貴そうな人を見かけたら、急いで帽子を脱ぐ必要がある
丁寧に感謝の言葉をお伝えして、御挨拶をしておかなければならない


何しろ人の世界は、その御方のわがままでできているのですから